古川柳


◎雪と吉原

雪の川柳には、ロマンチックなものがいくつかあります。

雪の夜ハ糊で付けたる顔二ツ 一25 

前句は「むつましき事 むつましき事」
「糊で付けたる」とは粋な表現ですね。

さて、
「のこりこそすれ のこりこそすれ」という前句で次のような句があります。

雪なれハよしとずつふり引かぶり 二14 

この句、万句合では次のように書かれていたそうです。

雪ならハよしと横キから答へ遣り

前句から連想して、奥方と仲睦まじいという訳ではなさそうです。
吉原の遊女とのことを連想するのが自然かと思います。

居つつけに用ひてよしがちいらちら 二十一8

吉原に居続けるのはお金も掛かるし、だいたい粋ではないとされていましたが、雪の降ったときは「居続け」も趣のあるものとされていたようです。

雪の日に五両くすねてむす子でる 九31

五両も持ち出して、息子はどこへ・・・
前句が不明なのですが、連想するに、これも吉原でしょうね。

雪空になると四つ手は景気上げ 玉2

雪の四手のねだること法に過ぎ 傍三13

四つ手とは辻駕篭のこと、店を構えてお客を待つ宿駕篭と違って、辻で客を乗せることから辻駕篭と呼ばれていたそうです。

雪の日は足元が悪くなりますから、お客も増えるのでしょう、
「ねだること法に過ぎ」というように、客の足元を見る駕篭もあったのでしょうね。
放蕩息子は辻駕篭で吉原へ繰り出したのでしょうか・・

さて、吉原には八月に降る雪もありました。

八朔の雪見る河岸のふぐも売れ

旧暦の八月一日は、家康が始めて江戸城に入った日とされており、正月に次ぐ祭日とされていました。
吉原ではこの日、遊女全員が白無垢を着る習わしがありました。
八朔の雪とは白無垢の遊女たち。
顔見世を河岸に喩えています。
ふぐは毒にあたるところから、醜女を指しているといいます。

息子が五両持ち出した日は、本物の雪が降った日だったのでしょうか、
八朔の雪の日だったのでしょうか、
前句が不明なので判りませんが、いずれにしても想像が広がります。




◎厄落とし

厄落としといえば、節分に男性は新調した褌、女性は腰巻を締め、人目につかないように辻へ行き、そこで脱いで捨てて帰ってくる、という風習があったそうです。

四十二の古褌や厄落し 子規

という正岡子規の俳句があります。

古川柳では

四辻に抜身で厄を切り抜ける

褌をわざわざ落す節替わり

で、その褌に銭を百文ばかり包んでおくと、それを拾った人に厄が移るといわれていました。迷信といえば迷信なので、

ふんどしをしめたと拾う厄払い

という輩もいれば、

是も褌だとかつぎ蹴て通り 十二17

かつぎは担ぎ屋の人足や、節代わり(大晦日)の蕎麦屋でしょうか、商人ですから験を担ぐのでしょう。

銭を包んで捨ててきてしまうのですから、その意味が転じて、

留袖をくらって来たが厄落とし

内容は破礼句です。
吉原の新造が一人前の女郎に出世したときに、振袖を留袖にするわけです。その費用はお客がもつわけで、まぁ、お金を使ったけれど厄落としだと思えば・・という意味です。それにしても「留袖をくらう」というのは露骨な表現ですね。

お金を落とすという意味では、現在でもちり紙などに小銭を包んで四辻の角のどこかに落としておき、誰かに拾われたら厄落としになる、という風習があるようです。

しかし落としたものに自分の厄が付いていて、拾った人にその厄が乗り移るとは、ちょっと都合が良過ぎるかも知れません。




◎鋳掛屋

鍋いかけすてつぺんからたばこにし 一2

古川柳では有名な句。
鋳掛け屋は鍋や釜を修理する商売。
昔の鍋釜は鋳物がほとんどだったので、割れたり穴か開くことが多かった。
また、貴重品でもあったため、修理して大切に使うことが当たり前でした。

鋳掛け屋は、道具箱を担いで、声を上げながら注文を取って商いをしていました。
金属を溶かして留めるわけですから、注文を受けたら簡易のふいごを使って火をおこすわけです。ある程度高温になるまでには時間がかかりますから、その間煙管を吸っているのだ、という意味ですね。「素天辺から煙草にし」つまり、仕事に入ってすぐにということです。

いかけやの声のよいのを女房よひ 十六27

これは現代の商いにも通じますね。

なべいかけ子供に水を取りにやり 十六31

なべいかけ子に金玉を見つけられ 
十三4

こういった職人技はどんな時代でも子供に人気があります。

なべいかけそりゃ退いたりとはさみ出し 七24 かりそめのこと

時にはこのように叱られることもあったのでしょう。

ちつぽけな桶で鋳掛は手を洗ひ 一26 片付けにけり

なべゐかけけちなてうしで手を洗ひ 八42 うき世なりけり

状況は同じような句ですが、前句から、鋳掛屋がいかに当たり前の商売だったかが見て取れます。

今は「リサイクル」などとカタカナ語を使っていますが、江戸時代はそのような概念すらないくらい、再生利用が当たり前だったのでしょう。
江戸時代の道具や物に対する概念は、現代よりも進んでいたような気がします。




◎雨宿り

古川柳で雨の句というと、

本ぶりに成て出て行雨やとり 一35 つれ立にけり・・

が有名。
人の行動の観察から生まれた作品として評価されていますね。

雨やどりはるかむこふハせみの声 十一33

雨やとり日和の方へかけて来る 十二11

雨やとり四五町行と水をうち 十二19

これらは夏の雨。
夕立、驟雨、にわか雨、雷雨などと表現されますが、現代ではこれに
「ゲリラ豪雨」も加わるのでしょうね。

これらの作品に通ずる状況の共有(雨降りの情景)があって、一35の句の味わいがより深くなるわけです。

本降りになって出て行く前の状況としては、

雨やとりちょつちょつと出てはぬれてみる 十三40 とこもかしこも

雨やどり出ようとしてハよしにする 二十三34

といったところでしょうか。
明らかににわか雨だと把握している場合だと、

入リもせぬ物の直をきく雨やとり 三37 こみ合にけり

雨やどり鰹をいじり叱られる 傍四4

雨やとりごおんとついてしかられる 十二22

雨のやむうち傘をねきつて居 捨九18

「すぐに止むだろう」という精神的余裕がさせる行動だともいえます。

雨やどりおぬしの方にいくら有 八41 あきはてにけり

雨やとり額の文字を能くおほへ 一14 ながめこそすれ

どちらも一35に劣らない良い句だなと思います。

ちかづきをかんがへて居る雨やとり 三26 廣イ事かな

この辺に知り合いが居なかっただろうか・・・

雨舎リ筆の無心はひんがよし 十五20

名句でも浮かんだのでしょうかね?

江戸時代になるまでは「傘」を使うという生活習慣がほとんどなかったそうです。
「唐傘」と書きますので、中国大陸から伝わったものと考えてしまいますが、当時(飛鳥時代)伝わったものは、宗教儀式に使う衣笠と呼ばれるもので、竹製で開くものが生まれたのは江戸時代になってから。
その構造から、絡繰(からくり)仕掛けの傘、絡繰傘→唐繰傘→唐傘になったといいます。
古川柳では「傘」と書いて「からかさ」と四音で読む場合もあります。

傘は海外でも、古代文明では宗教儀式の道具として、中世ヨーロッパでは女性が使う糞尿避けなど、雨具として使われるようになったのはずっと後になってからです。
その背景には、昔の人々は、そもそも雨の日に表へ出なかったことや、仕事に関係する道具を持ち歩いていたことが多く、それに加えて傘を持つということは、利便性の上で考えられなかったからだと言われています。




◎吉原

花咲かせ爺々は庄司甚右衛門 (文化年間)

古川柳には「吉原」を舞台にした作品が数多くあります。

吉原というと「遊郭」、要するに男性が女性を買うところである。
舞台が舞台だけに、破礼句や、末摘花と顔を顰める人もいるかもしれないが、過去に存在していた事柄を、現在の理屈や常識・倫理で判断することは、未来から見た現在を否定することと同じであり、どのような作品でも鑑賞し解釈することは大切なことだと考えています。

吉原は、江戸時代初頭、庄司甚右衛門という人物の陳情によって、現在の東京駅の近く堺町と呼ばれる辺りに、新しく整備された公許遊廓です。
当時このあたりは海に近く、葦が茂る原っぱであったようで、
そこから「葦原」→「葭原」そして葦は「あし(悪し)」とも読めることから、その音を嫌い、商売繁盛を祈念して「吉」の字を当て「吉原」になったといいます。

庄司甚右衛門は、街道筋で家康一行に遊女を世話したことがあり、その縁で吉原を開いたとの説もありますが、定かではありません。
公許といっても、公儀が守ってくれるわけではなく、単純に有力遊女屋による独占と、冥加金収入という業者と幕府の利害が一致したということでしょう。

元和3年(1617年)庄司甚右衛門を惣名主として吉原に遊女店の設置が許可されました。
これを元吉原と言い、新吉原、即ち現在の吉原と呼ばれる場所(台東区千束)に移転したのは、有名な明暦の大火(1657年)俗にいう振袖火事があった年です。
火事がきっかけではなく、江戸の整備が進み、設立当時は海辺の僻地だったのが、近くに大名屋敷等が建ち始めたため、火事の前年に移転が決定しています。
その時に移転先として、現在の千束周辺が公儀により決定されたのです。

戦国時代以降続いていた戦乱の世は平定され、江戸に人口が集中します。
都市開発の進展は、多くの職人を必要とします。
従って江戸市中における男女の人口比は、男性が極端に多い歪なものでした。
これはそのまま江戸の特徴になっていきます。
人口の3分の2が男性であったという記録もあるようです。

吉原は江戸市中最大の歓楽街でしたが、さすがに江戸中の男性を受け入れることは出来ません。
また売春は、元々公儀の許可を得ることなく行われていた行為ですから、湯屋、茶屋等そういった遊女を置く場所はかなりあったようです。

よく時代劇で「岡場所」という言葉が出てきますが、これは吉原遊郭ではなく、こういった無許可の遊女屋のことを指します。

「吉原遊郭」を現在のソープランドと同じように認識することは間違っています。
吉原遊びとは、風俗的、肉体関係等だけが目的ではなかったのです。

遊女との擬似恋愛を楽しむ、
竜宮城のような異次元の世界を楽しむ、
そういった精神的な楽しみ方が主なものです。

単純に性風俗営業店だと認識していると、理解できない古川柳がたくさん出てきます。

吉原の二日は嘘の封を切り (机鳥評 宝十二・山2)

この二日は正月二日のこと、つまり仕事始め。嘘とは即ち「遊女はいつも嘘をついている」という意味ですが、
それは、憎らしい嘘というよりも、客を誉めたり、はぐらかしたりというやり取りの妙のこと。
恋の手練手管の面白さ、と理解したほうが自然だと思います。

役人のほねつほいのハ猪牙に乗セ (二 13)

これは有名な作品。前句は「やわらかな事 やわらかな事」
猪牙とは猪牙舟のこと、これは江戸時代の快速艇。いわば川のタクシーです。
隅田川には数千を超える猪牙舟があったそうです。
高速で走りますからよく揺れたそうで、その揺れにも動じないのが遊び人の勲章だというイメージもあったようです。

吉原に通うのには「猪牙」と「四つ手駕篭」。
古川柳ではほとんど隠語化しています。

骨っぽい役人を、花魁の手練手管で骨抜きにしようとしたのでしょうか。単純に女をあてがって、言う事を聞かせよう、という解釈は生々し過ぎます。
真面目な人だから猪牙になど乗ったことがないだろう、その揺れでびっくりさせ、そして吉原という大歓楽街で、見た事もない世界を味わえば少しは柔らかくなるのではないか。という解釈の方が自然かなと思います。

猪牙で小便千両も捨てたやつ (十三 16)みえつかくれつ

ひらり乗る猪牙は元手の入った奴 (五 13)だてなことかな

江戸っ子の生れそこない猪牙で酔い

ここまで言わなくてもと思いますが・・・


さて、吉原には遊女の位付けがあったことをご存知だと思います。
よく聞く「大夫」(太夫とも)を筆頭に、格子(こうし)、以下端女郎と続く、
上方では大夫、天神、端女郎、鹿恋、と呼んだようです。
格子以下、散茶(さんちゃ)、梅茶(うめちゃ)、囲(かこい)、局(つぼね)とも記録されています。

とにかく吉原では大夫は最高の位であり、大名達の遊興の相手をするのだから、最高の遊技・遊芸を身に着けていなければならなかった。
これは即ち、当時の最高の芸能の宗匠・師匠らが、彼女達に芸を仕込んでいたということです。
「読み書き」などというレベルではなく、「和歌」「文章」「書」というレベルを大夫は備えていたのである。
当然、茶道、香道、花道等も嗜み、漢文を訓点無しで読めた者さえいたという。

せっさたくまの功成って太夫職 (四六 12)

おいらんの書棚に古今三部抄 (九七 24)

古今三部抄は「抄」とあるから古今和歌集の注釈書、もしくは古今集、新古今集、新続古今集の注釈書でしょうか。

おいらんの机にゆうし五元集 (一一〇 9)

五元集とは榎本其角(松尾芭蕉の門人。宝井其角。蕉門十哲の第一の門人といわれる)の発句集。ゆうし=夕べ

このような大夫を相手とする遊びは、下世話な風俗遊びとはまったく違い、客をしてその位以上の空間に自らを置くという、精神的満足を与えるものでした。

大夫の揚代は一両二分。現在の貨幣価値で11万円ちょっとになる。
 ※参考 お江戸換算機「あきんど」 ttp://www.edo.net/goinkyo/ryo.html

これに飲食代、幇間への祝儀などが約二十両、加えて揚代と同額の祝儀を店の関係者に配る必要がある。
これをケチると「野暮」ということになる。

最初の日、大夫は口も利かない、酒も飲まない、食事も取らない。
客の方が品定めをされるのである。

そして二回目の指名。これを「裏を返す」という。
ここでようやく大夫と言葉が交わせるのである。
しかし、まだ手を触れることすらできない。

三回目の指名でようやく打ち解けることが出来るのだが、同衾できるかどうかは大夫次第。
で、この三回とも同じ金額が必要であり、
三度目には、大夫も飲んだり、食べたり、会話したりとなるわけで、帰りにはそれ相応の祝儀を払わなければ野暮ということになってしまう。
そこで同衾したものなら、床花という揚代の四、五倍の祝儀を出さなければならない。

大まかな計算だが、大夫と馴染みになる(三会目)までに、現在の貨幣価値で900万円から1,000万円は必要というところだろう。

そして、一旦馴染みと成ると、他の遊女を揚げることはできない。
もしそんなことをしたら大変なことになる。
客は捕らえられて、遊女の前に連れ出され、全ての罪状を明かされ、髷を切られるのである。

男たるもののもとどり切る所 櫻木 木綿(一九 ス8)

「もとどり」とは髷のこと、木綿といえば呉陵軒可有。
即ち、この句の作者が、誹風柳多留の編者である。


大さわぎ五町に客がひとりなり  (十五 23)

蜜柑船伝説と、明暦の大火での材木の買占めで、巨万の富を得た紀伊国屋文左衛門が、吉原を一晩買い切ったという逸話から詠まれた句です。
一説には3千両(約二億二千五百万円)を一晩で使ったといわれています。
五町とは「五丁町」即ち吉原のこと。
江戸町一丁目・二丁目、京町一丁目・二丁目、角町で五丁。

材木の陰で千住もみんなうれ  (一八 41)

その紀文に対抗して金を使ったという奈良屋茂左衛門。
彼も明暦の大火をきっかけに材木で大儲けしました。
この二人が吉原を買い切ってしまったので、江戸の男たちは千住の遊女屋へ流れてしまい、千住もみんな売れてしまったというわけです。

奈良屋茂左衛門にはこんな伝説もあります。
蕎麦を一杯でいいから食わせろと言った友人に、江戸中の蕎麦屋を買い切って、
「今江戸には、お前の目の前にある一杯きりしか蕎麦がないのだよ」
といってご馳走したそうです。

ならものも五丁町でハ切れるなり 葉十(一七 44)

奈良茂(ならも)とは奈良屋茂左衛門の事。
伊国屋文左衛門は紀文ですね。
紀文は一代で富を築き、自分の代で没落してしまいました。
だからでしょうか、紀文の方が奈良茂より人気があったようです


初回には道草を喰ふ上草履  (初 4)

遊女は足袋を履きません。上草履を履いて廓内を移動します。初回は呼ばれてもいそいそと来ないということです。

草も木も寝るにまだ来ぬ初回の夜 (傍ニ 15)

初回では隣の部屋へ行って喰い (二四 11乙)

裏の夜は四五寸近く来て座り (二 31)

遣手まで笑いの行かぬうらの客 (三 36)

裏を返したときは遣手への祝儀はいらないとされていました。
しかし、そこは客が「粋」と「野暮」を天秤に掛けられるところ。
貰えそうかなと、遣手が顔を覗かせる事もあったようです。

主の夢ばか見いしたと三会目

三会目わたしやつめとふありんすよ (十九 ス4)
(冷とうありんす)

三会目心の知れた帯をとき (七 18)

主の手で御はし紙と書きなんし (二十四 6)

三会目箸一膳の主になり (二十一 21)

三会目で馴染みとなると、新しい箸が用意される。この箸紙に客は自分の名前や紋なり印を書く。遊女はこれを部屋の茶箪笥などに保管しておくのである。

まづくなる筈箸紙の名がちがひ (六十二 13)

時にはこういうこともあったのでしょう。


大夫、花魁、遊女のことを傾城とも呼びます。
傾城とは「漢書」の、

北方有佳人、絶世而独立。
一顧傾人城、再顧傾人国。
寧不知傾城与傾国、佳人難再得。

が由来だそうで、君主が夢中になって一度逢ったら城が傾き、二度目に逢ったら国が傾く。
そのくらいの絶世の美女という意味だそうです。

古川柳には、「女郎・女良」という表記もありますが、
傾城は「大夫・格子」などの上級の遊女に使い、
その下の遊女が「女郎・女良」というニュアンスで用いられている作品が多いですね。

さて、この「大夫・格子」などの階級は、宝暦年間の終り頃(1764)には有名無実化していきます。
これは、吉原が公設されたため、私娼の取り締まり
(これを「岡場所けいどう」と呼びます)が強化されます。
摘発された私娼は、公娼として吉原で年期奉公をさせられました。
彼女たちは「奴女郎」「けいど(傾奴)女郎」と呼ばれ、吉原で三年の年季奉公をさせられるのです。
大夫のような教養、芸技を積んでいるわけではありませんので、通常の遊女より格安で遊べました。
皮肉なことに、これが吉原の庶民化を進めていきます。

けいせいに嘘をつくなとむりをいい (一六 29)

まだ跡にこりやと四五両浅黄見せ (二〇 8)

浅黄は浅黄裏。田舎侍のこと。まだこんなにあるぞと金を見せるのは野暮の極み。

座敷持ちにせたんゆうをかけておき (二一 4)

高妓の中には部屋ばかりか座敷も持っていたものが居たという。しかし流石に金が掛かるだろう、掛けてある中には偽物の軸もあるのではないか。たんゆう=狩野探幽のこと。

二朱よりは一分の嘘がおもしろい (拾六 16)

二朱は約1万円、一分はその倍。高妓に比べると安い。それでも長く務めている遊女の嘘の方が面白いという。尤も言葉の嘘だけではなさそうです。


記録では、宝暦四年(1754)の「吉原出世鏡」に記載の、格子店玉屋山三郎抱えの花紫という大夫を最後に、吉原から大夫はいなくなってしまいます。
宝暦末年には格子もいなくなってしまい、吉原は散茶以下の「お客を選ばない」遊女ばかりになってしまいました。
それでも吉原細見には、大夫九十匁、格子六十匁などと書かれており、にもかかわらず再興しようとするものが居ない事が、洒落本などで指摘されています。

年代から見ると、柄井川柳が初めて万句合興行を開いたのが宝暦7年(1757年)、柳多留刊行が明和2年(1765)ですから、その頃吉原には大夫は一人も居なかったことになります。
寛政7年(1795)に格子女郎が復活しますが、大夫は復活しませんでした。
そう考えると、古川柳、中でも柳多留の中の大夫を詠んだ句を鑑賞する場合、詠み手の昔を懐かしむ思いや、吉原の庶民化を嘆く感情を探るのも一興かと思います。

呼び出しハはづかしくなくうれ残り (十七 21)

「呼び出し」とは大夫がいなくなった後の最高位の遊女。
高妓は茶屋を通さなければ揚げることができないため、店先で客待ちをすることがなかった。つまり、お茶を引いたとしても、客の目に晒されないので恥ずかしくないだろうという意味。

けいせいのゑくぼにはまる家やしき (拾八 13)

具体的な事実というよりも、そのくらいお金が掛かるのだということを、大げさに表現したのでしょうね。

九十匁も二十四文も同じ夢 (拾八 15)

銀九十匁=一両二分。即ち大夫のこと。二十四文は夜鷹と呼ばれる私娼の値段。400円ちょっと。

句の中で二十四文と詠まれている訳ですから、一般に認識されていた値段なのでしょう。
1700年代の終わり頃に蕎麦が十六文と言われていますから、夜鷹という商売の存在そのものに対する感覚が、現代では考えられない次元にあったといえますね。


吉原を舞台とした川柳で、とにかく憎まれ役となっているのが、遣手と女衒である。

遣手とは、廓で遊女の世話や、監督をする老婆のこと。
川柳では意地悪、強欲、薄情、太っていて鍵の束を持っているおっかない婆ぁ、と決まっている。
実際は、遣手がいなければ廓は動かないといわれるほど、文字通り
「遣り手」の管理職なのだが・・。
店と遊女の間に立ち、ある時は店側、ある時は遊女側、とにかく廓が円滑に営業できるように差配をしていた。
新造(新米の遊女)の教育、客と遊女の間に立って、憎まれ役を引き受けることで場を収めることもあった。
共通の敵ができると、男女のちょっとした揉め事は解決してしまうものである。

正直をなおしなんしと遣手いい

嘘を吐けという遣手の指導。

一人寝た夜をやり手に数えられ (傍二 22)

遊女は客を取って初めて銭になる。廓の商売道具である。お茶を挽こうものなら遣手から小言がくるのである。

風邪ぐらゐなんだと遣手ひんまくり (筥二 8)

遊女の一日をいかに銭にするかが遣手の仕事でもある。

憎まれ婆ア一軒に一人ずつ (十八 19)

自他共に鬼と呼ばれて一人前であった。

遣手は、年季の明けた遊女で身寄りのないものが、そのまま廓に雇われるというのが多い。
苦界とも呼ばれた吉原では、年季を待たず労咳や性病で命を落すものが少なくなかった。
表現はきついが、年季が明ければ「娑婆に出る」わけだ。
所帯を持つものが多かったようだが、遣手は行くところもなくて廓に残るわけだから、太っていて不細工というところに繋がるのだろう。

みみづくのやうな遣手の身ごしらえ (七 42)

遣手婆毛抜き合せにいもじをし (拾八 9)

どちらも見立ての句だが、毛抜き合せとは、要するに太っているので湯文字が余らない、端と端が丁度合う状態になっているということ。


妊娠した遊女は、大抵堕胎させられる。
その役を遣手が任せられることもあった。
また病身の遊女を始末することもあったという。
とにかく極悪非道のイメージで語られる遣手である。

古川柳では、遊女から見た遣り手像がそのまま作品の背景となっているものが多い。
客の中には遣手の差配を評価するものもいたようだが、それはあまり表には出てこない。
遊女の着物、簪など、身の回り品は自分持ちである。
当然、客のつかない遊女は四苦八苦することとなる。
廓も小汚い格好で見世に出す訳にもいかないので、借金をさせてそれなりに揃えさせる。
そういう遊女のために、野暮天や田舎侍を上手く宛がうのも遣手の仕事である。
どの遊女にも客がつき、年季まで大病もせず借金が積み重ならず、廓が流行ることが遣手の一番の仕事なのである。
こっそりと食べ物をやったり、金を工面してやったり、それなりの面倒も見ていたようだ。
それでも遊女からは「死なれちゃ困るからさ」という目で見られていた。
むしろそう見られることも、遣手の仕事なのかもしれない。

発端を聞けば遣手は乳母上がり (拾六 22)
面倒見というところか。

くたはるほどにどやしなと遣り手いひ (一七 5)

イメージとしてはストライクな作品。


プロ野球のペナントイベントレース。
毎年秋になると、デパートやスーパーでは、優勝チームにかこつけた売り出しセールを行なっています。

このように何かの記念に合わせたイベントは昔の吉原でも行われていました。

「紋日」(ものひ と読みますが吉原では もんぴ と読まれていたようです。)といって
五節句(正月七日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日)に加え
二月初午、四月更衣、六月暑中見舞い、七月玉菊灯籠、八月八朔、俄狂言、十五日月見、
九月十三日後の月、十月玄猪、恵比寿講、十一月酉の市、十二月煤掃、そして初雪、
とこれらが紋日としてイベントとなっていました。

特に八月から九月にかけては大紋日として、その賑やかさは大変なものであったそうです。
そして紋日には、遊女へ支払う金額が倍になる決まりで、此れでは幾ら金があっても足りない。

大体金持ちは、どんな時代でも大盤振る舞いができるものだが、江戸の経済活動が盛んになり、安定してくると、俄成金や腕のいい職人なども、岡場所ではなく吉原へ繰り出すようになります。

「けいどう」が行われ、奴女郎が増える、ますますお大尽ではない者たちも遊女買いに繰り出すようになる。

世間の格差が縮小することで、吉原の大衆化が進む。

加えて寛政の改革などで紋日の削減が定められると、その傾向はより顕著となって行く。

太夫はいなくなり、昼三(ちゅうさん・昼も夜も三分掛かるという意味)と呼ばれる高妓も数少なくなる。

吉原はその成り立ちから、こういった定めを背負っていた歓楽街だったともいえます。



初午は隅つこばかり騒がしい (一七 23)

二月の初午は稲荷社の祭り。
お稲荷様は屋敷の鬼門や裏鬼門に置かれる。町内では路地の奥にある。吉原の、九郎助、明石、松田、榎本、の四社もやはり廓内の隅に位置していた。だから「隅つこ」というのではそのままの表現。八月に行われる俄狂言は、この中の九郎助稲荷の大祭として執り行われた。これは吉原を上げてのイベントで、祗園囃子が鳴り響き、女芸者らの演舞や踊り屋台の引き回し、手踊りに俄狂言と大変な賑わいを呈したという。つまり「初午はそうだけれども」という意味も込められている。

灯籠が消えて俄に騒ぐ也 (四六 10)

灯籠とは玉菊灯籠のこと。
玉菊とは角町中万字屋の遊女で、大変才にあふれる太夫であったという。諸芸に通じ、特に三味線に長けていた。その玉菊が二十五の若さで亡くなった。多くの人から好かれていた彼女を弔うために、仲の町の茶屋が灯籠を吊るしたのが玉菊灯籠の始まりだという。

玉菊精霊に手向けたが起り (傍四 20)

玉菊の魂軒へぶらさがり (一 22)

玉菊灯籠は六月の晦日から、七月の晦日まで、途中二日の休みをはさみ飾りを変えて吊るされていた。
「灯籠が消えて俄に騒ぐ」というのは玉菊灯籠が終って、俄狂言が始まるということである。

花ちりて袷の匂う仲の町 (可有評・寛五 一 20)

これは四月の衣更。この日から綿入れの着物から袷になるのだが、さてこの衣更えも馴染の客にとっては物入りということになる。

七夕は土手からみへるもん日なり (一二 13)

山谷から見える廓に星の歌 (一一一 12)

七月の七夕。同じ情景を詠んだ句だが、後の句の切なさがなんともいえない。


「雪と吉原」にも書きましたが、八朔は吉原の遊女が白無垢を着る日でした。

病人を祖とし八朔衣替え (二二 15)
八月一日は江戸の祭日でしたが、夕霧という遊女が体調を崩して臥せっていた時に、馴染みの客が来たため、白無垢小袖の寝間着のまま席に出たところ、その姿があまりに美しかったため、それを真似る遊女があり、それが八朔の雪の起こりだと言われています。

八朔の雪は質屋に流れ込み

新造までは降り足らぬ秋の雪

この日一日だけの衣装。馴染みに上手くねだれればいいのですが、そうはいかない遊女は遣り繰りも大変だったようです。

雪空が晴れると月の影がさし (玉 3)

八朔が終るといよいよ八月十五夜の月の紋日がやって来ます。さてこの大紋日。客は大変な出費が必要になりますが、遊女のほうも大変。この日に馴染みが来ないようでは面目が丸つぶれです。しかも九月九日は菊の節句、九月十三日は十三夜。この紋日の連続をどうやって凌ごうか、客も遊女も頭が痛いところです。

田ごとほど出す傾城の月の文 (三 1)

傾城は年中客へ誘いの文を書いていました。「月の文」このときばかりは何時もより多く気を入れて文を書いたことでしょう。

ぶらついて月見に切れる糸瓜客

夏中ぶらぶらしていた糸瓜も、秋になると落ちてしまいます。それと客を掛けた句。吉原の大紋日は客にすれば懐の厄日でもありますから。
そんな時期だけに、逆に言えばお足さえあれば持てることこの上ない訳です。
そんな場合古川柳では、大店のどら息子がエライ散在をしてしまうという意味の句が見受けられます。

手習いの世話がやんだら女郎買い (一七 31)狐声

寺子屋の世話にならなくなったと思ったらなんと・・

息子もう二人遊びに母こまり

ほんの少し前までは、おもちゃを与えておけば一人で上手に遊んでいたのに・・・

神仏を息子手づまに遣うなり (玉 9)

吉原の近くにある正灯寺は紅葉の名所。目黒不動の近くには品川の遊女里。堀の内には妙法寺。とにかく神社仏閣へお参りにいくというのは口実。いったい何を拝んでいたのやら。
傾城につめられ親父にはぶたれ
そんなわけで座敷牢に入れられることになります。

座敷牢ああ月われを滅ぼせり (一八 25)
座敷牢で悔やんでも遅い。

座敷牢羨ましくも澄める月

座敷牢へも月の光が差すようで・・・

片見月ごくごく悪い首尾と見え (八 28)

こちらは傾城からの視点。必ずと約束をしたのに、後の月(十三夜)には来てくれなかった。よほどのことがあったのだろう。
つまりは座敷牢か勘当ということ。

座敷牢さふもあらうと遣り手いひ  (桜 5)

どういう理由かはわかりませんが、勘当された息子は銚子に行くというのが川柳の決まりごとになっているようで、

銚子への路銀に払う銀ぎせる(五 42)そんなことかな
銀ぎせるは道楽息子のお決まりのアイテム。それを売り払って銚子への旅・・

九月十四日干鱈の船に乗り

後の月盃のない銚子なり (傍五 32)泉河

後の月はもちろん十三夜。どうやら先の十五夜で勘当ということになったようです。

ののさまを二度請け合って銚子なり (一七 39)

ののさまは月。こちらは片見月ではなかったようですね。


二つの月が終れば十月玄猪。十月初めの亥の日。茶道では炉開き。世間一般の習いでは、牡丹餅をつくり炬燵を出す。

亥の日から女房さえざえしく暮らし

「さえざえしく」とは「うきうきして」といった意味。

四角でも炬燵は野暮なものでなし

くどきそめたのは十月の亥の子也 (川柳評 安六天)

などというように、廓より世間の方が色っぽい。
吉原では

亥の子から足袋をはくとは口惜しい (宝一一 鶴2)

世間では炬燵を出し、奉公人でさえ足袋を履くことができるのに、遊女は足袋を履くことができない。

玄猪の次は恵比寿講。
恵比寿講は商人が繁盛を祈念して、一月と十月の二十日の日に恵比寿様を祭るというもの。

五節句のほかにゑびすが苦労させ (拾一 26)

商人は親戚縁者のみならずお客にも酒肴を振舞ったのである。宣伝にもなるし、あまりけちなこともできない。夏にどら息子を座敷牢に入れるのも判る。

夷講あつかましくも傘を持ち (二〇 11)

ふいの雨にお客に傘を貸すというサービスは、傘に店の名前を書いてあるので宣伝も兼ねていた。しかし次の日や、二、三日で返しに来ない客もいて、恵比寿講の日に「以前お借りしたものですが」などとあつかましくもやって来るわけ。

夷講耳をすぼめて信濃喰い

信濃者三杯目から噛んで食い

毎年秋に信濃から江戸へ出稼ぎに来る男たちを「信濃」といい、どういうわけか古川柳では「大飯喰らい」と相場が決まっている。「耳をすぼめて」は無我夢中でという意味。

伊勢屋では七十五日過ぎて買い (筥一 24)

伊勢屋のきらひ初物と信濃者

名代の伊勢屋は、これまたどういうわけか古川柳では名うてのケチということになっている。初物は値が高い。信濃者は大飯を喰う。伊勢屋はケチだからどちらも嫌いだろう、という意味。
さすがに内で金が要る時期は、吉原の句も少ない。

しかし酉の市になると状況が変わってくる。
もともと葛西の鷲大明神(おおとりだいみょうじん)が本家。千束町の鷲大明神社はその分家。本家が衰退してから、分家が台頭といったところ。
何しろ地理的に吉原に近いため、酉の市へいくと言いながら鷲ではなく鳳凰のほうへ足を伸ばす輩が多かった。

鷲からそれて鳳凰を息子買い

お多福までがうりきれる酉の市

お多福に熊手の客がひっかかり (九三 32)

屁の種と欲の種買う酉の市

酉の市では熊手や唐の芋を売った。

しかられるそばにしなびた唐の芋

熊手見て女房噛み付く戌の市(二七 28)

戌の市どこにあるえと脹れてる

酉の次の日は戌。つまり酉の市に行って吉原で遊んで次の日に帰ってきたということ。
三の酉まである年は火事が多いと言い伝えられているが、当時の炬燵や火鉢という暖房器具の中、大勢の人が昼夜外出する機会が増えるのだから、失火の確率も上がるというものである。


さて、十二月。
世間一般では十三日を煤掃としていましたが、吉原では師走早々に済ませていたようです。
遊女は紋付の手拭を若い者たちに与え、座敷の煤掃をさせました。
世間でも吉原でも、煤掃の終わりはご祝儀として主人以下一同を胴上げし、掃き収めるという一種の無礼講でした。

十三日遣手一期の引けをとり (拾八 10)

胴上げで、普段の恨みを買ったのでしょう。

座敷牢腰縄で出る十三日 (五 3)かくしこそすれ

煤掃は、それこそかまどの煤まで掃除するわけだから、当然座敷牢の中も掃除します。その間、中に閉じ込めれていた道楽息子を、柱か庭の木に腰縄で括りつけておくのでしょう。

吉原の紋日はみな日が決まっていますが、初雪だけは別。
いつ降るか判りませんから。
さて、初雪が降ると揚げ代金は倍。

初雪にまづ惣領へ錠が下り
 (拾六 13)ふかいことかな

年末に持ち出されない用心のためでしょうか・・・

初雪は時を定めぬ紋日也 (二〇 31)櫻木・豊好

臨時の物入り土手からちいらちら (一五 28)

余の町と違い雪まで金にする (傍一 16)

初雪をめくり日というむごいこと (一七 36)

初雪の下見に起きる太鼓持ち (拾八 5)

吉原の格式は時代と供に薄れていきます。
幕府による、贅沢・豪奢を取り締まる改革も度々行われ、皮肉なことにその都度吉原には大衆化の波が打ち寄せました。

初雪に死んだ女郎の噂が出 (拾六 17)上手なりけり

昔の話を持ち出して揚げ代の他に幾らか出させたのでしょうか。前句からだとそのようにも見えますが、それとは別に鑑賞してみたい作品です。


◎酔っ払い

古川柳では、酔っ払いは「生酔い」「ずぶろく」として扱われている。

生酔いのうしろ通れば寄かかり (七 34 あさいことかな)

前句から考えて、泥酔状態ではない。座敷での酒宴。女中が通れば悪戯をする。そんな風景。

門口へ来て生酔いはぐうたぐた

家へ着くまではしっかりしているのだが・・・

生酔いになって陰間を一度買い (拾八 23)

陰間とは男娼のこと。色道は女色男色の二道をもって粋とされていた時代、日本橋の葭町にど陰間茶屋で有名な場所もあった。それでもいきなり陰間というわけには行かなかったのだろう。酔った勢いで一度は経験してみよう。そんなところか。
「生酔い」はほろ酔いから、へべれけまで広い意味で使われていたようだが、「ずぶろく」は音の印象からしても酷い酔っ払い。
川柳には「ずぶ三」「五」「六」「七」と程度をもじったものがある。

孝行のようにずぶ六蚊に食われ

泥酔して裸になったことを、中国の孝行の規範とされた二十四孝(にじゅうしこう)の、親が蚊に刺されないように裸で寝たという呉猛(ごもう)の故事にかけている。

ずぶ三の頃が酒盛りおもしろし (九六)

丁度いい酔い加減。上戸も下戸もみんな幸せ。

ずぶ六は寝るがずぶ五は手におえず (一〇一 37)

そうはいっても、いつ寝てしまうか判らない。

ずぶ六の踊に困る涼み台 (九〇)

トンボをきったりされては、危なっかしくて・・

ずぶ七になって生酔手におえず (一〇六)

これは手に負えない。

ずぶろくを辻番手柄そうにしめ (一五 3)

現代のお巡りさんも通じるところがあるかも知れません。


◎病あれこれ

古川柳に出てくる病というと、労咳(ろうがい)、腎虚(じんきょ)、瘡毒(そうどく)、疱瘡(ほうそう)などが上げられる。
労咳は肺結核。栄養状態の良くなった現代でも、時々耳にする病気である。絶滅した病ではないのだ。

ところが古川柳に出て来る「労咳」は「結核」として読むとどうにも理解のできないものがある。

実は、結核も労咳なのだが、恋の悩みというか思春期の性的な悩みから来る心の不安定な状態のことも「労咳」と呼んでいた。
恋わずらいが高じて肺を病むと、どういうわけか理解されていたのである。

労咳はしのびがえしの内でやみ (一〇 20)

忍び返し。つまり夜這いが来られないということ。

労咳のもとは行儀をよく育ち (五 42)

大事に育てられた、箱入り娘などが罹患しやすいとでもいうのか。

労咳のもとは物のけから起こり

この物のけは妄想。異性のことをあれこれ妄想ばかりしていて病んでしまったというところ。

労咳の母は近所のどらをほめ (二一 30)

娘が心配な母親。恋心でも芽生えれば良くなるのではと、近所のどら息子でもあてがうと言うとなんだが、「あの子なんかどうなんだい」などと娘に話している。

灸よりは男が娘おそわなり

「おそわなり」は「適当である」という意味。労咳の治療には背中に灸をしたのだが、灸よりも男の方が病に効くというところ。

労咳へへのこ用うる異な療治

これはまた直接的な表現。

亭主があっての労咳さじを投げ (二〇 26)

亭主という「男」がいるわけで、これは本当の肺病。で、「さじを投げる」とは酷い言い様である。

腎虚(じんきょ)とは夜の営みが激しい男性が掛かる病。
精力は腎臓から発すると考えられていたため、精も根も尽きて死に至るという理解がされていたようだ。

その薬腎虚させてが煎じてる

申し子の願も叶わず腎虚なり

入り婿の腎虚はあまり律儀すぎ

ここはまだ生きてござると女房泣き
さすがに、どの句も破礼句である。

瘡毒(そうどく)は梅毒のこと。カサとも呼んだ。
大方は岡場所や夜鷹がその供給源である。

馬鹿な高慢おらがかさは吉原 (二一 ス4)雨譚

吉原で貰った瘡の方が格が高いのでしょうかね。

いっぺんはかさもかきゃれとたわけもの (二二 12)

瘡毒はスピロヘーターによって発症する感染症。抗生物質のない江戸時代では確実な治療法は存在していなかった。「一度くらいは感染ってみろ」とはとんでもない話。
第一期、第二期の症状が治まった後、数年の潜伏期を経て第三期になると、現代医学でも治療は不可能である。最終的には脳神経系を犯され死に至る。

疱瘡(ほうそう)は天然痘のことである。
感染力、致死率供に強く、世界中で恐れられてきた感染症である。
勿論江戸時代には治療法がなかったが、九州の秋月藩では、藩医緒方春朔(おがた・しゅんさく)による人痘種痘法が行われ、効果を上げていた。(実はジェンナーの牛痘種痘法より六年も早い)
天然痘は一度罹ると強い免疫抗体ができるので、予防接種により感染拡大を防ぐことができた。1980年WHOは天然痘の根絶宣言を行っている。

子供医者赤い紙燭で送られる

疱瘡に稚児の着ている緋の衣 (九 22)

疱瘡に罹った子供は、身の回りを赤ずくめにしておくと軽く済むと伝えられていた。紙燭(しそく)は室内用の照明具。松の木を削り先端を焦がし油を塗り火を灯した。周りを紙屋紙(こうやがみ)で包んだものを時代劇でも見ることがある。
その照明具まで赤く揃えたのであろう。


◎宝船

初夢は正月二日の夜に見る夢といわれています。
「一富士二鷹三茄子」などといわれますが、そういった良い夢を見るためには、七福神が乗った宝船の絵に、次の歌を記して枕の下に敷いておくといいそうです。

「永き夜の遠の眠りのみな目覚め波乗り舟の音のよきかな」
「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」

ご覧の通り回文になっています。

宝舟さかさによんで下女かんじ 九13

古川柳で下女といえば、教養が無くて尻が軽いという、男性にとって都合の良い存在でした。
さて「下女かんじ」とはどういった状況でしょうか?
「宝船の回文なんて、誰だって知っていることなのに、教養が無い下女は妙に感心してしまう」
という意味でしょうか?
宝舟は正月二日に枕の下敷きになります。
そこからの類推で、「姫始」と絡めたバレ句が沢山残っています。

紙屑の溜まり始めは宝舟

長き夜のくぜつ七福神はきき

宝舟皺になるほど女房漕ぎ

若水に濡れる二日の宝船


あえて解説はいたしませんが、こうなってくると先の句に別の意味があるのではないかと邪推してしまいます。

尤も、松平定信の寛政の改革 (1787〜1793)の影響で、柳多留から破礼句が削除されたとも言われていますので、
九13の句にそこまで深い意味があると見るのは考えすぎかも知れません。

◎扇子箱

お年玉といえば、現在では子供に上げるお小遣いを思い浮かべますが、もともとは新年を祝う贈答品のことを指していました。
古川柳によく出てくる「扇子」はその代表的なもので
年が明けると扇子売りの声が町にこだましたようです。

あふきうり掛取りの気をよわくする 十一2 

掛取りは借金取りの事。
大晦日は一年の清算ですので、掛取りは夜を徹して回収に回ります。
しかし新年になってしまったら、もう取立ては出来ません。
明け方の扇売りの声、掛取りにとっては悔しい声に聞こえたことでしょう。で、この扇子ですが、縁起物ですので、杉や桐の箱に入って売られています。
正月も十五日を過ぎたころになると、この扇子箱を来年のために買い取る商売が現れます。
扇子箱買いは「よそ行きの紙屑買い」などと呼ばれ、賑やかな正月の終わりの風物となっていたようです。

扇箱買風呂敷と百で出来  十四31

年中出来る商売ではありませんので、風呂敷と百文ほどの小銭があれば誰でも商えるという意味でしょう。

あふぎ箱買きざみこぶただもらい 十六26

正月のお飾りも十五日には焼いてしまいます。
そこへ扇子箱買いが来たのでしょう。
お飾りに使っていた昆布を貰ったのかも知れませんね。
こうして買われた扇子箱は、来年また縁起物として再利用されるわけです。

扇箱鳴らしてみてハのしを付ケ  初27

時期が決まっているものだけに、一度に沢山用意することになります。
いちいち空けて中身を確認してからよりも、振って音をさせたほうが手っ取り早いというものです。
この句の前句は「気のはれた事、気のはれた事」
別の意味も、あるかも知れませんね。


◎万年屋

年末・年始になると、CMが流れる厄除け大師。
関東では、佐野厄除け大師、青柳大師、川越大師などが有名。
大師といっても、厄除け大師は弘法大師ではなく、慈恵大師(良源)をさすそうです。
六阿弥陀参りのように、江戸の行楽は神社仏閣へのお参りを兼ねていました。
厄年になると、厄払いに皆でお大師様詣でを行うのです。
そこで次のような句が生まれたのではないでしょうか。

万年屋十五年めで内儀喰イ 明和4年 さくらの実 

一見、何のことやら判らない作品ですが、
万年屋というのは河崎万年屋という川崎にあった有名な旅籠のこと。
明和年間(1764年〜72年)安い飯屋だったのが(一説に十三文均一だったとも。今で言えば250〜300円といったところか)、奈良茶飯を出すようになってから評判が評判を呼んで川崎で一番の店となり、川崎詣でといえば万年屋と、東海道中膝栗にも登場している。
かのハリスが泊まったという話もある。
奈良茶飯というのは、奈良時代に伝わったお茶で穀物を炊いたもので、奈良の東大寺等で食べられていたものですが、関東では明暦の大火(1653)後に浅草に出来た「奈良茶飯屋」が始まりだといわれています。
ですから、「万年屋で喰い」とはこの「奈良茶飯」を指すのでしょう。
では、十五年めとは?
ということになりますが、
万年屋は川崎大師へ参る時に立ち寄るところ、川崎大師は厄除け大師です。
内儀ですから女性。
女性の厄年は・・・・

前厄十八歳、本厄十九歳、後厄二十歳
前厄三十二歳、本厄三十三歳、後厄三十四歳
前厄三十六歳、本厄三十七歳、後厄三十八歳

アバウトですけれど、娘の頃にお参りした女性が、三十三前後に再び参れば十五年目、ということではないでしょうか。
当時の人はこの句を分解し、解釈をして「なるほど上手いことを言う」などと楽しんでいたのかも知れませんね。

現代の川柳では、こういった手法はあまり評価されません。
世の中の風俗の変化が速いということもありますし、
多くの情報が溢れていますので、
誰もが、ほぼ同じ経験・環境を土台に生活を営んでいるとはいえませんからね・・


◎誹諧武玉川

俳諧の連歌の短句は七・七音である。
そして五・七・五音は長句になる。
連歌を詠むには、発句の作り方やそれに対する付け方、
短句に付く長句、長句に付く短句、加えて式目を理解しなければならないため、
その練習(訓練)の一環として、発句を覚えるための笠附、附句を覚えるための前句附が行われた。
当然宗匠が、付けた部分の優劣をつけるわけだから、その前の予行練習というか、笠附や附句を仲間内で持ち寄る集まりがあったかもしれない。
いずれにせよ、附句だけを抜き出して一まとめにしようという人物が出てきても不自然なことではない。

慶 紀逸(けい きいつ)という編者が「誹諧武玉川」をまとめたのも、時代の流れといっていいだろう。
これは柄井川柳が万句合興行を始める七年も前のことである。

誹諧武玉川は俳諧の附句集であるので、当然七・七音と五・七・五音の句が混在している。

発句が俳諧から離れて一句として鑑賞されていったように、
附句も秀句集として俳諧を離れて鑑賞されるようになっていく。

そして万句合興行の川柳点、俳風柳多留へとその流れが受け継がれていく。
五・七・五・七・七という歌の形が、
五・七・五に附く七・七、
七・七に附く五・七・五、
を連ねることで、全体として世界を形作る連歌となり、
その発句、附句の中から、単独で鑑賞されるものが出現し、
俳句、武玉川、柳多留、柳風狂句と呼ばれていく。

明治時代になり、新傾向川柳として通称から正式に「川柳」と呼ばれた五・七・五音の文芸は、
新興川柳運動を経て、五・七・五音を用いる表現手法の可能性を目指すことになる。
これが所謂「現代川柳」と呼ばれているものだと理解して差し支えないだろう。

従って、五・七・五音であれ、七・七音であれ、その枠で何がどこまで表現できるだろうかという試みは、川柳と認識していいと考えている。

また句会では、「この課題に対してこの作品」という評価も用いられている。
これも文芸としての川柳の面白さである。

どちらが良い悪い、正しい正しくない、ではなく、それだけ川柳が広大であるとの認識でいい。

表現したい事柄が七・七音を用いたほうが良いと判断したなら、躊躇する理由はないのである。


古川柳の項目の参考文献はこちらになります。


参照文献
誹風柳多留(一)(二)(三) 山澤英雄校訂 岩波文庫
柳多留拾遺(上)(下)  山澤英雄校訂 岩波文庫
初代川柳選句集(上)(下) 千葉治校訂
古川柳風俗事典 田辺貞之助著 青蛙房
江戸時代芸道の風俗誌 足立直郎著 展望社
川柳東海道(上)(下) 岡田甫著 読売新聞社
川柳末摘花注解 岡田甫著 第一出版社
耽奇猥談 田中香涯著 富士書房
江戸川柳を読む 岩田九郎 有精堂
江戸古川柳の世界 下村弘著 講談社現代新書
川柳江戸の四季 下村弘著 中公新書
岩橋邦枝の誹風柳多留 岩橋邦枝著 集英社文庫
江戸川柳の謎解き 室山源三郎著 教養文庫
古川柳名句選 山路閑古著 ちくま文庫
川柳吉原便覧 佐藤要人著 三省堂
江戸川柳便覧 佐藤要人著 三省
「値段」の日本史 宝島社




                                 
inserted by FC2 system