明治・新傾向川柳

◎川柳中興の祖

井上剣花坊・阪井久良岐の二人の出現により、明治時代に「川柳」は「川柳」として興った。
「狂句」通称(川柳)から「新・川柳』として、世に根を下ろすこととなる。
ここに始めて「古・川柳」というものも定義付けられることになる。
井上剣花坊・阪井久良岐の二人は今でこそ川柳中興の祖、新川柳運動のきっかけになったとされているが、実際は時代の要請であったのかもしれない。狂句時代の謎掛け、判じ物、卑俗猥褻なものがテーマになることの多かった川柳に飽き足りず、または否定したいという欲求が、愛好家を奮い立たせ、また明治という時代、20世紀という時代を迎え、短歌、俳句に起きた新興運動が、彼らに大きな刺激を与え、「川柳」を語戯から文芸へと駆り立てていったのではないだろうか。
明治から大正にかけ、
「新川柳」つまり現代に言う「川柳」は大きく発展する。結社、柳誌が全国に興り、遠く満州、朝鮮、台湾にまで及んだ。当然川柳感観の対立も起き始める。

作者の視点を一と置き、他人である人間を詠むもの。
作者自身も人間であるという前提から個人の内面に迫ろうというもの。
社会におけるイデオロギー対立の中から人間存在に迫るもの。
みなそれぞれの立場から活発に柳論を戦わせた。
日中戦争が始まり、日本は泥沼の太平洋戦争へと突入していく。国家総動員体制、物不足の中、明治大正と興隆を見せた川柳界にも暗い影が圧し掛かってきた。たった十七音字の文芸にさえ思想・言論の弾圧は加えられ、銃後川柳、時局川柳等と呼び、戦争遂行を称える内容のものが多く詠まれていった。もっとも、反戦や自由な発想を詠んだ者が無かったわけではない。
しかし、大きな時代の流れに埋没せざるを得なかったのである。
太平洋戦争では、国民皆がそうであったように、多くの壮年川柳家が帰らぬ人となった。
大きなうねりを見せた「新川柳」も敗戦という壊滅的な状況を前に、為す術も無く佇むばかりであった。しかし、敗戦によって思想言論への弾圧が無くなったとき、真っ先に言いたいこと、表現したいことを具現化するのは他でもない、川柳のような短詩形文学ではなかったか。
紙すら満足に無い時代川柳家達は逞しくも蘇っていくのである。



                                 
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