大正・昭和・戦後


大正・昭和・戦後
太平洋戦争後、戦中の抑圧された言論の反動からか、タブーがタブーでなくなる、またはタブーであると認識させることで形作られてきた権威が崩壊する、ということが様々な分野で起こり始めた。
「新川柳」は先鋭化した作家達によって、戦前からすでにそのような域に達していたのであるが、一般社会にまで「川柳」のそこまでのイメージを植付けるには至らなかった。

そんな中、一般大衆雑誌によって募集された川柳は、川柳の形態を借りた、庶民のタブーへの挑戦だったのかもしれない。句の内容を別とし、理解の正邪を問わなければ、「川柳」という言葉が一般に広く認識されたのもこの頃からであろう。

特定の愛好者や、ある種の知識人から、全ての人々へと「五・七・五でものを語ること」が浸透したのである。ただ、残念に思うのは、そこから先に「川柳」への理解・認識が世間一般に広まらなかったことである。

◎川柳漫画

大正から昭和にかけ、川柳が爆発的に流行したことがある。
谷脇素文の川柳漫画がそれである。
昭和元年発行の「川柳漫画浮世さまざま」は昭和三年には六十九版を重ね、昭和五年発行の「川柳漫画いのちの洗濯」は十年には六十五版を数えている。また、ブームに乗ってというか、昭和三年には「川柳漫画時代相」(風來山人著)なるものも発行され、これも五年ほどで十五版を数えている。
内容は古川柳をはじめ、新聞・雑誌投稿作品の中から抽出された句を、一コマの漫画を添えて紹介しているものである。

素文の著作に関しては、
井上剣花坊が序文を寄せている。
剣花坊は、自身が川柳を志したのは『絵本柳樽』なるものを幼少期に手にしたことがきっかけであると書いているが、川柳を一般に知らしめるには、大変効果的な方法だったといえよう。
しかし、剣花坊の思いとは別に、新・川柳の本質とは違う形で世間に受け入れられていった。
岸本水府 川柳読本 岸本水府は谷脇素文の川柳漫画について自身の川柳入門書
「川柳読本」(昭和二十八年発行 創元社)内で次のように書いている

>谷脇素文という画家が講談社にいて、
本人の思いつきか、編集部の企画か、
川柳を漫画にすることを、キングや講談倶楽部に載せはじめたところ、面白いので一大人気を博し単行本を出すほど「素文の川柳漫画」が世紀的な存在を持つようになりました。
      ( 略 )
ところが、川柳家はどう思っているか、それほど普及してくれたのだから感謝でもしていそうですが、どうしてどうして、川柳家はその人気と反比例して、顔をそむけて迷惑がり、悪宣伝だと気勢をあげたものであります。それは川柳が漫画になることが悪いというのではなく、素文の漫画が、クスグリになっていて、川柳の本質を備えていない、古川柳の中の特に悪作のみを追っているような作品を漫画化して
      ( 略 )
たとえば
「わが尻を言わず盥を小さがり」
などといったような句となると、素文の面目この上もないという描き方であります。
      ( 略 )
素文画伯の功罪を論ずるつもりではなかったのです。世の中の川柳認識がまだ幾分この素文漫画のところを低回しているような気がするために、書いたに過ぎません。<

川柳を啓蒙しようとするには、まず判りやすい句から紹介しなければならない。
しかしその直ぐ脇には狂句百年の負債が付きまとっていた。
  
川柳評万句合の中の末番句的なものや、一世を風靡した川柳漫画的なものが「川柳」だと認識され、様々な雑誌で募集が始まり、数千、数万の句が投稿されていく。
六巨頭をはじめ、新・川柳を標榜してきた作家達には遣り切れない思いでいたであろう。
同じ五・七・五の形態を取る俳句に比べて、川柳は季語や切れ字といったものを使わない、だから、俳句より気楽に出来る。世間ではどうもそういう認識があるようだ。

「思ったことを何でも句にしていいですよ」となると、本当に思ったことを五・七・五に詰め込んで「ハイ、一句できました」となる。
川柳をやってみようと句会や吟社を訪れる初心者の方々のほとんどが感じる違和感。
「川柳」という文芸の認識におけるギャップ。
このギャップは、現在の川柳の世界でも継続しているといえる。


世渡り川柳なるほど草子

谷 孫六著「世渡り川柳なるほど草子」という冊子がある。
定価二拾銭、昭和十二年十二月二十一日発行となっている。

発行所は森田書房とあり、広告等を見ていくとどうやら駅の売店で主に販売されていたものらしい。
「全国主用駅売店書店発売中」や「特約 東京鉄道局公認」などとある。
内容は、句とそれを解説する内容のコント仕立ての文章が書かれており、その内容ごとに、「妻にて候」「金の世の中」「酔て如件」
「女房同志」「温泉場小景」「恋をする頃」「出物腫れ物」等々に分類されている。
総ページ数は八十しかないがなかなか面白い。
私が気に入ったのは「はしがき」である。

谷 孫六はこういう
「世間の人は川柳を見くびっている。あれは下女や居候や、花魁ばかりを相手にしている下品なものだと伝ふ。しかしそれは大変な間違ひだ。そんなことを伝ふ人はほんたうの川柳を知らないのだ。(略)著者川柳を作り始めて二十年、何万と伝ふなかから、みなさまへお目にかけるような句はこれつぽッちである。選り抜きと伝へば選り抜きだが、如何に川柳が作るに難しいかと伝ふことはこれで御了解が得られる筈だ。(略)後世、「むかしの人はうまい事を伝ったものさ」なんて、そのひとつでも覚えていて頂いて親の意見にも、借金の伝ひ訳にも、応用されるようだったら、天下に素晴らしい名を残すと伝ふもの、死んでからの事を楽しみに、この本を出しておく」

  谷 孫六作品
大臣になると新聞直ぐけなし
経済科出身と伝ふ失業者
何時見てもお客のいない宝石屋
拾ふ気で振りかへつたが銭でなし


谷 孫六は死んでからの事を楽しみと書いたが、
二十一世紀になって二十銭だったものを、百五十円も出して買った人間が、
インターネットというものを使って紹介することを想像できただろうか。

昭和川柳百人一句
「昭和川柳百人一句」宮尾しげを書、並びに編である。限定自家版百五十部とある。
昭和九年一月十日発行とあるが、その割には随分しっかりしている。
そう昔ではない頃に復刻されたものであろう。それについての説明は何も書かれていないが。
扉を開けると大きな字で
「紀元二千五百九十四年刊 初編 昭和川柳百人一句 宮尾しげを編」とあり、
次のページに「上梓について」とある。昭和川柳百人一句
なんでも、明治、大正、昭和を通じての川柳家を紹介しようと「川柳きやり」へ発表し、四年掛かって百人になったので初編として発行する事になったという。
川柳総合辞典(尾藤三柳編 雄山閣出版)によると、昭和十二年に第二編、十五年に第三編が発行されている。
本文は写真のように右に作者の自薦句、左に自薦句と宮尾しげを氏による作者の似顔絵が記されている。(写真は井上剣花坊のページ)
六巨頭を始めそうそうたる顔ぶれの百人だ。

この絵がまたいい、着物を着ていたり、背広であったり、正座だったり胡座だったり、何か読んでいたり、書いていたり、飲んでいたりと、作者の性格までもが想像できる。
こんなに個性的な人物が沢山いたのかと自薦句と共に先人を堪能できる。

◎川柳に見る戦時下の世相

戦争を川柳はどう捕らえるのか。「戦争は悪だから反戦を詠う」それだけの川柳でいいのだろうか。

手と足をもいだ丸太にして返し 鶴彬

これは太平洋戦争中に発表された句である。
当時の言論、思想統制の中でもこういう句を作る、いや作ってもいいんだという、川柳の凄さを垣間見ることが出来る。

「川柳に見る戦時下の世相」から数句ご紹介する。

非常時の乞食黙殺されている     有馬郎
レストラン変な名前の飯ができ    粋花
白米の味を忘れる長期戦        漫山
統制は米の色まで変わりだし      凡楽
なかばからもうないらしいパンの列   月兎
配給所で鮪裂いてるのは見たが    鋭々
よく噛んで食べればまたも石を噛み  鬼外
木炭車血の一滴のビラが揺れ     清史
主婦の友もう御化粧の秘訣なし    武士
標語だけ貼って店頭無愛想           惇夫
長期戦神社このごろよく儲け        日満子
産むだけは統制令に除外され       窓花
憲兵に親子の情をどなられる        春渉
あの方も神の妻かと振り返り         上棟





川柳の創造力、精神力は想像以上に逞しいことを多くの方に知っていただければ幸いである。

日中戦争から太平洋戦争にかけて、言論と表現の自由がなく、何か言えば「非国民」などと呼ばれ特高に連れて行かれるという事が当たり前のように思われていたし、川柳も「時局川柳」などと呼ばれ、大本営発表の「戦勝」をそのまま称える内容のものが多くなっていった。
しかし全ての川柳がそうであったわけではない。
やはりこの時代でも、川柳は「言いたい事を言う」ための個人のツールであったと思う。

南京は陥ちても支那は生きている   左 門
信ずべき新聞がない暗い国      魔古刀
門松はむだだ年始もやめろとは    正岡容
紙芝居巡査に立たれかたくなり  石手向上庵
米がない炭もない世の美談聞く    青 果
日本髪結って見せたい人は盾  池ヶ谷須美子


それぞれの句には現代ではすこし解説がいるが、
「メディアリテラシー」の概念を十分に含有した作品群だと言える。
権力の言う事を信じるというより、そういう振りをしていた方が恙無く暮らしていけるという生き方を
選・著者の高橋隆治氏は痛烈に皮肉っているが、
改めて、川柳の深さというものをそこに感じる。


◎川柳末摘花註解
新川柳末摘花 『川柳末摘花註解』の著者岡田甫(ハジメ)氏は、
戦後「夫婦生活」という雑誌で読者川柳コンクールの撰者を務めており、その応募作品や、氏が主催していた「近代庶民文化研究会」で発表された句を中心に『新川柳末摘花』という書籍を昭和三十一年に発行している。
内容は、末摘花以上に性描写に振れているが、江戸時代の末摘花とは大きく違っている点が幾つかある。
性病の句が姿を消したことや、避妊の句、女性作者の投稿が増えたことである。
江戸期の万句合は庶民の文化、生活を紐解くのに最適な資料だといわれることがあるが、実際にはその投稿者の三分の一は武士階層であり、女性の作者は皆無であったと思われる。
全体の思考の源泉に「庶民ならこうだろう」「こういう女は都合がいい」的発想がなかったとはいえない。

明治大正にかけて興った新興川柳運動の一番の収穫は、社会のイデオロギー闘争という側面もあって、一部の知識人の作品を読んで楽しむ庶民、という構図から、自分自身で句を発する庶民を増やしたことであろう。
「自分の思いを語って良いのだ」という文化の始まりでもあった。





                                 


inserted by FC2 system