六巨頭の時代

◎六巨頭の時代
戦後から昭和三十年代までを六巨頭の時代と呼んで差し支えないであろう。
戦後、全国に華々しくよみがえった吟社、結社は数多くの組織、連盟を作り、全国規模の大会を開催するなど日本中に川柳を運んでいった。
もはや「新川柳」ではなく「川柳」として。
そしてその中心に六人がいた。

その六人とは、
川上三太郎(カワカミサンタロウ)、
岸本水府(キシモトスイフ)、
村田周魚(ムラタシュウギョ)、
麻生路郎(アソウジロウ)、
前田雀郎(マエダジャクロウ)、
椙元紋太(スギモトモンタ)である。


川上三太郎
1891-1968東京都出身(日本橋蛎殼町)本名幾次郎、後に改名三太郎
雨ぞ降る渋谷新宿孤独あり
しらゆきがふるふるふるさとの酒ぞ
さくら草つかめばつかめそうな風   
明治三十七年、十四歳のころ剣花坊の柳樽寺川柳会に所属。
昭和四年「国民新聞」の川柳選者となり、この投句者等を中心として「国民川柳会」結成。
発行誌は「国民川柳会報」後に「国民川柳」昭和九年に「川柳研究」と名を変え現在も「川柳研究社」として活動が続いている。
読売新聞の時事川柳選者としても活躍。
昭和四十一年川柳家として初の紫綬褒章を受賞。


◎岸本水府
1892-1965三重県出身、本名龍郎
泣いている後ろ通ればあけてくれ
脱ぎ
すててうちが一番いよいという
友だちはいいものと知る戎橋
十七歳頃から水府丸の号で新聞等に投稿を始める。
明治四十三年より水府として活動。
大正十二年「番傘」が創刊され同人の一人として参加する。
「番傘」は大正十五年より月刊誌となり、以後大戦中の物資不足時に休刊があったりはするが、日本最大の川柳結社として現在に至る。
水府は、新聞記者をふりだしに、化粧品、衣料品、菓子会社等の広告宣伝に活躍。
コピーライターの草分けでもある。


◎村田周魚
1889-1967東京都出身(下谷車坂)本名泰助
盃を挙げて天下は回りもち
春の闇酒の匂ひとすれ違い
お互いの齢をほめあう山の道
明治四十年十九歳の時、柳多留を熟読し俳句から川柳に転向。
大正二年柳樽寺川柳会同人。大正九年きやり吟社を興す。
太平洋戦争時に雑誌統合整理の指令を受け、東京では「川柳研究」のみが存続を許されるが、
私信として、句会報を一ヶ月の休刊もなく出し続けた。
これは雑誌統合整理の指導により存続を許された吟社でも出来なかったことである。
ちなみに「きやり」が休刊したのは、関東大震災の時のみである。
(九月一日は句会の予定日であったともいう)


◎麻生路郎
1888‐1965 広島県出身(尾道市)本名幸二郎
俺に似よ俺に似るなと子を思い
君見たまへ菠薐草が伸びている
寝転べば畳一帖ふさぐのみ
 明治三十七年読売新聞へ投句を始めたのが川柳へ入るきっかけ。
大正四年「雪」同七年「土団子」同八年「後の葉柳」刊行と精力的に川柳冊子を出す。
新興川柳運動に力を注ぐ。
大正十三年「川柳雑誌」を発行。路郎死後その遺言により川柳塔社「川柳塔」と改称し現在に至る。
様々な職業に就き、衆議院に立候補したこともある(落選)
昭和十一年川柳職業人間を宣言、川柳で生活をなす。


◎前田雀郎
1897‐1960栃木県出身(宇都宮氏相生町)本名 源一郎
年賀状小さな借りを思い出し
鉄兜今日鍋となるミコトノリ
寿はどう崩してもめでたい字
 大正三年、宇陽柳風会(宇都宮)に所属、狂句を学ぶ。
大正六年講談社入社、阪井久良岐の門を叩く。以後古川柳研究者、作家として活動。
大正十三年自選の都柳壇の投句者を中心に「みやこ」を創刊。
このころ師阪井久良岐より破門。
昭和十一年「せんりう」創刊。同十五年日本川柳協会設立と同じに委員長に推され就任。
なお「せんりう」は昭和三十五年雀郎の死をもって廃刊。


◎椙元紋太
1890-1970兵庫県出身(神戸市)本名 文之助
弱い児に弱いと言わぬことにする
限りなくあなたお前の日よ続け
知ってるかあははと手品やめにする
 菓子製造甘源堂主人。菓子屋へ丁稚奉公していた十七、八歳ころから川柳句会へ出席し始め、この道に入る。
昭和四年、同志十八名と川柳誌「ふあうすと」を創刊。
戦時中、英文字追放で「もめん」と改称するが、戦時統制令公布で休刊。
しかし、終戦とともに再び「ふあうすと」として復刊を果たし、現在も盛んな活動を行っている。
「川柳は人間である」「川柳明治発生説」等を主張



昭和三十五年、雀郎、四十年、水府,路郎、四十二年、周魚、四十三年、三太郎,四十五年、紋太と同時期に次々とリーダーを失った川柳であったが、消沈し衰退するようなことはなかった。
自己と他者、個性、非個性、社会に対する距離感など、川柳を巡る表現の大地は、伝統・革新という括りにとどまらない多様性を、柳人の前に提供し始めていた。
多くの柳誌,吟社が興り、消滅し、再び新しいものが興る。
昭和四十七年,川柳年間が刊行され、四十九年,日本川柳協会が結成される
(昭和十五年に結成されたものは終戦と同時に消滅)
そして平成四年、全日本川柳協会は文部省より社団法人としての認可を受けるまでに成長する。
またこの間、新聞雑誌などのいわゆるマスコミ川柳も盛んになり、昭和六十二年には「第一回第一生命サラリーマン川柳コンクール」が開催された。
世の中に「川柳」として認識されているものと、これだけの歴史を持ち、剣花坊、久良岐から百年を経た「川柳」とのギャップは、六巨頭なき後に多様化し、先鋭化してしまった事も一因かもしれない。
しかし、現代川柳はその時間の中で、扉を開ける者達を魅了する奥深さを身につけたのである。




                                 
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