川柳の技術的なことあれこれ VOL 1


◎五・七・五

川柳の基本は“五七五”であるとは良くいわれることだけれど、これが文字数ではなくて音字数だということはあまり知られていない。
“五七五の十七文字”と言っているのはあくまで初心者に教えるための言葉であって、本当のところは“五七五の十七音”もしくは“リズムを持った十七音”というべきだろう。

ちなみに、きゃ・きゅ・きょ、などの拗音は二文字で一音と数えるが、たっ・ちっ、などの促音は二文字で二音に数える。撥音「ん」や伸ばす音「−」も一音に数える。

新幹線・・・6音 
フォークボール・・・6音
特許庁・・・5音  
救急車・・・5音

以上のように数える。初心のうちは指を折ったり、仮名に直して数えて見るとよい。
2004年08月


川柳の“五七五”で大事なのは、真中の七音と下の五音を崩さないということだ。
上の五音は六や七、もしくは九音くらいになっても、読み下すときに不自然さを感じないが、中七と下五が多かったり少なかったりすると、違和感が生じる。
わざとその違和感を利用する表現もあるのだが、初心のうちは頑固に音字を守って作句する事だ。と、言うと十七音と矛盾するではないかといわれるだろう。次のような標語はどうなんだと

赤信号みんなで渡れば怖くない

手を上げて横断歩道を渡りましょう

確かにリズムは良い。
唄の歌詞を見ても分かるが八音はリズムで言えばOKになる。しかし、川柳としてどうだろう。「で」と「を」は意味の限定であって、作者の思いというよりは、笑わせようとか注意の喚起といった、目的が先に立っている。
中七はルールだからと言えばいいのだが、それで納得できない人も多いだろう。
絶対にこうだと説明付けられないのは不勉強のそしりだが、私は句意に広がりを持たせ、思いを伝えるための「間」だと考えている。
実際、数百年の歴史の中で中八の句はほとんどない。数を作っていくと八音でなければならない場面にはほとんど遭遇しない。
誤解を生む表現になるが、作った句が可愛いから、あまりに意味を限定して、この句はこういうことね、と軽く読まれることが辛くなってくる。
だからと言って句意が拡散しては元も子もない。
川柳の難しさは尽きないものである。
2004年08月


◎句箋

句箋とは、句会場で出席者に配布される縦長の紙のことで、出席者はここにその日に出題されている「題」に対して作句したものを書いて提出するのである。
締め切られた句箋の束は選者によって選考され、発表(披講と呼ぶ)される。
横4センチ縦20センチ、これが日本川柳協会が、昭和五十四年の第三回全国川柳大会(大阪にて開催)において公式に規格として発表した句箋のサイズである。
統一規格とはいえ、実際の句会では,横3.5〜4センチ、18〜21センチ位の幅で微妙に大きさに違いがある。
ともあれ、全国の柳人はこの約80平方センチメートルの空間の中に思いを込めるため,大げさに言えば己の宇宙を表現するために、日夜頭を絞っているのである。
句箋へは鉛筆(B〜2Bが適している)を使って句を書くが、作者名は書かない。
ルビも基本的には振らない。草書体ではなく楷書で書くのが一般的である。
2004年08月


句箋に句を書くときに筆跡を変えて書く、という話を良く聞く。
しかし当の本人からそういった話を聞いたためしはない。
大抵噂話として
「あいつは全部違う字で出すんだよ」とか、「字で取る選者なんかいないのにセコイ」等といった悪口というか当人のイメージを貶めるような場合に使われているようだ。
筆跡を変えるメリットがあるのかどうか判らないが、関東のように三才、五客といった高点句を扱う場合、三才に選んだ三枚の句箋が同じ筆跡なら、選者も心得ていて他のと変えるんではないか、そんな想像が働いているのかもしれない。
競吟の選は句の内容について選考しているもので、誰の文字だということが選考を左右することはない。

考えてみれば解るが、欠席投稿者の句については、ほとんどの吟社が投句担当者や他の同人による代筆である。同じ筆跡の句選は集句の中に沢山混ざっているものだ。たまに選者がリップサービスで呼名した出席者に対して、「お前こんな字を書いたっけ」などと座を沸かせるときがあるが、それを真に受けていろんな筆跡を練習する暇があったら、句を作るか、句報、柳誌を読み返して、他の秀句を読んだほうがよっぽど為になるであろう。
2004年08月


◎作句

ここからは作句について書いてみたい。
川柳は前句附から始まったと、歴史を振り返る中で書いた。
例えば、「こわいことかなこわいことかな」という前句に、「かみなりをまねて腹かけやっとさせ」という附句を作るわけである。いうなれば前句が題ということになる。
もっとも呉陵軒可有は、「一句にて句意のわかり安きをもって一帖をなし、なかんずく当世誹風の余情を結べる秀吟等…」と述べているので、前句と附句の距離に、万句合へ投稿してくる作者達とは違った意味を持たせたともいえる。いずれにせよ、題があって句を作るというのが古川柳の興行であった。
現代の句会も、見かけ上はその形態を引き継いではいる。しかし、題は、名詞、動詞、形容詞、さまざまであり、カタカナ語はもちろん、物体であったり記号であったりする。中には、記号、文章、音楽、または匂いや味などで出題される「印象吟」というものもある。
当然、題を外して(句として自立して)意味が通じないものは秀句にはならない。題そのものが句の中に入っていようがいなかろうが(印象吟に関していうと、題そのものを説明してはいけない。あくまでもその題から受けたイメージ、インスピレーションを句箋に投影するのだ)一句として鑑賞に耐えうるものでなければならないのだ。
TV等で見る大喜利でよく作られる、考え落ちや判じ物、駄洒落は川柳ではないのである。
2004年09月


川柳の作り方を述べていこうとするときに避けて通れないのが「中八」であろう。新聞や雑誌の投稿から川柳会へ臨まれる方にとっては「中八」とはそんなに忌むベき物ではない。演歌の歌詞を見てもらえれば判るが、日本語のリズムとして「中八」はそんなに悪いものではない。しかし、過去から続く膨大な数の句の中で「中八」の句の占めるパーセンテージは驚くほど少ない。つまり「川柳とは中七」なのである。
極端にいえば、別に解説をする「し止め」と同じで、「句会では通用しませんよ」広げて「川柳専門誌への投稿では(川柳家が選考者として名を連ねている場合には)選考されませんよ」、ということになる。
中七と中八の一音の違いは、助詞を用いた場合、意味の限定につながる。
これは川柳を鑑賞する場合の枷になってしまう。
万葉の時代から日本語を使って様々なリズムで歌が形作られてきたが、絶対的に意味を伝えようとすれば、七五調はあいまいな部分を残してしまう。そのあいまいな部分(言い尽さない部分)の思いを汲み取るという鑑賞方法を読み手が取ることで、深い表現が可能になっていく。

俳句のように「や」「かな」「けり」という切れ字を使わず、口語体で表現される川柳は、一瞥して読み手が句を理解する(感情移入する)ための間を持っていない。その間を生み出すのが中七であり、七五調と呼ばれる形態ではないか。
突き詰めて考えていけば、鑑賞するための「間」のポイントが無理のないところに存在するのであれば、中八であろうと、いわゆる破調と呼ばれるものであっても許容されるのだと思う。私は、五・七・五の十七音という取り決めは、作句者へ対してのものだけでなく、読み手に対しての鑑賞方法の一部であるとも考える。
2004年09月


古川柳にも、昭和の大家の句にも、「中八」があるじゃないか、というご批判もあろう。それはブランド品でもこんなものを作っていますよ、と言っているのと同じだと思う。だからといって、その商品がブランドの本質を変化させてしまうことにはならない。だから「句会では通用しませんよ」「川柳専門誌への投稿では選考されませんよ」と敢えて言うのだ。

昔は句会で選者が中八の句を抜くと「中八!」と野次が飛んだものだった。競吟の場では、個々の句にたいして抜句理由を説明することはない。「これこれこう言う理由で中八であるが抜いた」などとは言わないし、そもそもミスでもない限り、抜かない。
かりに説明をしたからといって、座が納得するような中八の句はまず無いからだ。
一音多いことで意味の限定が起こるような句は、産まれた時点で鑑賞に堪えうる余韻を有していないからだ。とはいえ、これはあくまでも過去の経験則からルールのように取り扱われているもので、未来のこととなると判らない。
言葉は変化していくもの。特に日本語は一種類の文字で表記されるものではなく
(平仮名、片仮名、漢字、ローマ字など)、場合によって読み方が変わったり、音字数が変化したりする。
カタカナ語やコンピュータ関係の言葉、イントネーションによって意味に変化をもたらそうとする若者言葉などが、日常的に使用され理解される時代がくれば、川柳の形態も変化していくであろう。つまり、川柳界でも「中八」が認知される時代が来るかもしれない。しかし現在はそうではない、ということである。
「中七」を意識して作句しているように、初めから「中八」を意識して作句するのではなく、「出来ちゃった中八」では川柳界では通用しません、と、くどい様だが記しておく。
2004年09月


川柳のルールに「し止めは駄目」というのがある。
簡単に言うと「する」の連用形である「し」で句が終わってはいけないということである。
「用心し」「洗濯し」「買い物し」下五がこんなような語で終わってはいけないのだ。
ややこしく言うと、動詞、形容詞、助動詞などの用言に接続する動詞のなかで、終止形が「〜する」という形になる、サ行変格活用の連用形「〜し」で下五が終止してはいけない、ということになる。
これも「中八」同様、「句会、川柳誌等の世界では通用しません」「やっても無駄です」ということになるのだ。
もともと、川柳は七・七の前句に対して附句を作るというところから始まっている。
だから性質上「〜し」などの連用形等で終止するのは、その前提に十四音の前句があり、そこで意味の完成が起こる。したがって過去に膨大な数の、「し止め」の句が作られてきたと考えていただいてよい。

前にも書いたが、呉陵軒可有が「一句にて句意のわかり安きをもって一帖をなし、なかんずく当世誹風の余情を結べる秀吟等…」と万句合の中から選定した句の数々。これが現代の川柳につながっていくのだが、この時点で「し止め」の句に有罪判決が下りたといってもよい。「一句にて句意のわかり安き」というのであるから、前句を取っ払っても意味が完成しなければならない。ゆえに「し止め」は、歴史の流れの中で淘汰されてきた、と考えるのが判りやすいかもしれない。
同様に「来る」が「来」や「居る」が「居」等の下五の終わり方も、十四音の前句があってこそ意味の完成が起こると見なされるため、「し止め」と同様にいけないこととされている。
2004年09月


◎披講

披講の上手い選者が少なくなってきた、とよく聞く。
実際披講の訓練をやっているという吟社や勉強会の話を聞いたことがない。
何でもかんでも五・七・五できっちり区切って読まれる選者さんがおられるが、これは困ったものである。
単純な例だが七・五・五の句をこれでやられると、句意がまったく伝わらないし、作者自身が気づかなくて呼名がないなんて事が起きてしまう。
拙句を使った例で見てみよう。

金がない時は匂いで飯が食え

この句を五・七・五できっちり区切って読むと、こう聞こえてしまう。

金がない 鴇(トキ)は匂いで 飯が食え

下手をすると訳の判らない句意になる。
披講は、伝えようとする「間」を大切に読んでいただきたい。

金がない時は 匂いで飯が食え

句は創るだけではなく、読んで伝えることもまた難しいものである。
2004年08月


◎音の句と字の句

私は最近句会では、大きく分けて二種類の句を作るようにしている。
一つは「音」の句、もう一つは「字」の句である。
「音」の句とは、選者が読み上げた瞬間に、その座にいる全員に意味が解るが、活字になった場合、大したことを言っているわけではない、目での鑑賞にはそんなに耐えられない句でもある。
「字」の句とは、読み上げられたときも勿論意味は通じるのだが、活字になってもう一度読んでもらった時に味わっていただくというと生意気だが、場面が想像されるような句を考えている。
両方の要素が上手く噛み合うと、良い句になるのではないかと、まずは別々の視点で句箋に対峙している。文字通り句箋苦闘しているのである。
かつしか句会で抜いていただいた句から例をあげてみる。

題「深い」
そこ深いですよと自殺注意され  帆波

これは「音」の句。選者の披講に左右されやすい作りだ。
結果は前抜き(活字にならない平抜き)であった。

題「鼻薬」 
セールスは間抜けな犬も誉め倒し  帆波

これは「字」の句。題に寄りかかったきらいもあるが、二度三度読んでから場面の想像が広がるのではないかと構成してみた。結果はかろうじて活字。

「音」の句というのは、活字メディアやネットでの表現には限界があるが、句会場においては瞬間の反応を見ることが出来る。この臨場感は他所ではなかなか味わえないものだ。
しばらくは音の句と字の句を句会で試してみたい。
200409


◎題は詠み込むのか否か

出された題を句の中に詠みこむのか否か。これが結構話題になることがある。
基本的には「題」は着想のきっかけであるから、詠み込もうが、詠み込まないで作句しようが、自由なのだが。「関西は詠み込み。関東は詠み込んではいけない」や「あの選者は詠み込みを抜く、詠み込んだら抜かない」などとまことしやかな噂が語られている。
実際に関西の川柳社では、柳誌等から見ても詠み込みが多い。
只、これは出題にもよる。傾向として関西では「名詞」が題に用いられることが多い。従って自然と詠み込みが多くなる。例えば「コンビニ」という題が出た場合。十七音字で「コンビニ」を詠み込まないで作句するというのは難しい。逆に関東では、形容詞や形容動詞、が多い。「美しい」という題で「美しい」を入れてしまっては「美しい○○」「○○は美しい」というような形になりやすく、この部分だけで意味の説明・限定が起きてしまう。故に詠み込まないで作句するようになっていく。
どちらも一長一短があるが(名詞の題は初心者やさまざまな傾向の吟社であっても戸惑わないで作句、選考が出来る利点があるが、句が小さくまとまる可能性もある。形容詞などが題の場合、思い切った表現が生まれるという利点があるが、題によりかかった句が生まれる危険性もある)本来はあまりこだわる必要の無い事柄である。
作るという醍醐味でいえば、題を詠み込まない方が面白さが上だろうが、自身の内部にあるテーマの具現化を考えた場合は、詠み込んで多作することによって、微妙な表現の訓練になるとも言える
2004年09月


◎題詠と雑詠

私はもともと、新聞や雑誌の投稿から川柳と付き合うようになったのだが、初めのころは全く結果が出ず、才能が無いのかと自省する事さえ通り越して、選考に問題があるのではないかと、偽名を使ったり、年齢を詐称したり、知り合いの住所を借りたりと、「お馬鹿な」ことばかりしていた。
ひょんな事から川柳句会というものを知り、出向いてみることにした。
確か、宿題が2題、席題が2題、参加費用が500円だったと記憶している。
会場で「会員は雑詠を出すように」と、差配の人物が言っているのを聞いていて。「なるほど、前もって出された題で作るのと、その場で作るもの、これが作句の訓練で、その訓練の結果、雑詠という、雑多なところへ出した句(私は雑詠をそのように理解していた)、すなわち数々の新聞、雑誌等で:結果の出た句を集めているんだ」と勝手に解釈していた。
つまり、当時の私は、句会とは「投稿界の猛者が集まる秘密の集会」で、そんなものが身近で開催されているというチャンスに、何とか仲間に入れてもらおうと必死だった。
まぁ、句会終了時にはすべてが誤解だったと知ることになるのだが、会場にいた30名ほどの中高年の方々がみな、投稿で飯を食っているように見えたものだった。
第一印象がこうだから、以後数年の間、私にとって「題詠」とは雑詠への練習問題に過ぎなかった
2004年09月


句会に行き出して、3年位してからだと思うが、メンバーに連れられて、他の句会や大会へ出向くようになり、数冊の柳誌を貰ったり、自分でも購読するようになると、賞金や賞品の絡む新聞や雑誌の投稿とは違う川柳の魅力に取り付かれるようになっていった。題詠と雑詠に対するスタンスに違いが無くなっていったのもこのころである。

24時間365日どの瞬間にも川柳は存在している。
雑詠はその瞬間瞬間を起点とした感情であり着想であるし、題詠は題によってその空間を規定されはするが、人生の瞬間の切り取りには違いない。そんなことをおぼろげに感じるようになった。
題詠の題はクイズの問題ではない、答え探しをするような作句姿勢では良い句は生まれない。これは、会場や選者、その会のカラーに添った句をつい作ってしまう自分への戒めでもある。
どうしても句が出来ないとき、知らず知らずにそのような思考の罠に嵌っている事がある。句箋と自分の距離が取れなくなっているのだ。離れて見ればつまらない句だと判るのに、離れることが怖くなっていたりする。
題詠の怖いところは、自分の句を鑑賞する視点を持っていないと、句箋への思いの出入り口が違う分、口当たりの良いだけの句であったり、報告や「題」そのものの説明に終わってしまう点にある。雑詠と題詠の差とはその辺りだと思う。
2004年09月


                        
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