川柳の技術的なことあれこれ VOL 2

◎説明句を避ける
選考からもれた句に対して「説明句」という表現がある。句の内容が事象に対して単なる報告に終わっている場合などに使われる。簡単な例えで、説明句の避け方を考えてみる。

@ ○○の○○○は○○だ 

という形。この場合、下五の○○に意外性がないと状況の説明になるということは一目で理解いただけると思う。

A ○○し○○○は○○だ

これは上に比べてもっと状況の説明になっている。下五に意外性があってもそれが上五の説明になってしまう。
次に、

B ○○し○○○の○○だ 

この場合、上五が事象の原因提起になってしまい中七以後が面白くても、全体の説明、解説の印象を免れない。そして次、

C ○○の○○○の○○だ 

こうなるとだいぶすっきりしてくる。上五を中七が受けて下五につながっていく。

 これら四つの違いを見ると、上五が「し止め」、助詞「は」の在り方に気付いていただけると思う。これらを手直しすることで、ずいぶんと句が他人に伝わりやすくなる。
川柳には「庭(に・は)を削って野(の)に直せ」という言葉があるが、投稿前の推敲、没句の検証にこの点を加えるだけでも、内容、句の姿共に良くなる場合が多い。
勿論、助詞を使わない句もあるし、すべての場合に当てはまることではないが、「が・で・に・は・の・と…」等、様々な助詞を当てはめて句を練るのは無駄な努力ではないと思う。
あと私が良く使う手は、句の最後に「あぁそうですか」と付け加えてみる。
これに不自然さを感じない場合はまず説明句だと考え、見直しをするようにしている。
2004年09月


◎副詞「も」

作句時に私がよく悩むのが「も」の扱いである。
つい使ってしまうが、十七音字しかない川柳では何と何が「も」なのかがないと言いっぱなしになるし、その「何」があまり具体的に示されていると説明臭を感じてしまう。
拙句をあげてみると

夏の酒だからグラスも汗をかく

この句の「も」は何を指すのか? いかに私が安直に句を作っているかが如実に出ている。
「も」が「は」や「が」では、冷酒を飲んだ瞬間の只の写生に過ぎない。
そこで読み手に想像させようと「も」を持ってきたのだが、グラスの他に何が汗をかいているのかという読者の想像は、冷酒を飲んだ瞬間の私の感情とは関係のないところへ行ってしまう。
心象に素直であれば 、

冷酒チンチンまた僕は逃げている

となるのだが、これでは難解だと自分で引いてしまう。だから「も」を使う。その自分が許せなかったりする。本当に川柳は難しい。
2004年09月


◎比喩・暗喩

「○○のようだ」「○○のように」など何を何に喩えているのかがはっきりと分る修辞法を比喩と言い、喩えてはいるのだが「ように」「ようだ」などを使わずに間接的に表現しようとすることを暗喩と言う。
人間以外のものに人格を持たせるような擬人法や、「ざあざあ」「がらがら」などの擬音語(オノマトペ)を用いる場合も比喩・暗喩表現に入る。以前は特に、暗喩や擬音語を使った川柳は「革新句」などと呼ばれていたようだが、内的な世界を表現するには、難解ではあるが効果的でもあるため多くの川柳家が取り入れ、川柳表現に幅と共に深さを生み出した事は確かである。ただ、行きすぎると全くの難解句、作者しか解らない世界に陥りやすい欠点がある。
また、一瞥して高尚な印象があるので、それっぽいものの乱造が起こる危険性もある。
2004年09月


◎川柳で書く嘘

川柳に嘘はいけないといわれる。
私はこれを、単純に「嘘」を書いてはいけないという意味ではなく、人間という対象への「嘘」がいけないという意味だと理解している。
嘘のような事実と、本当のような嘘。現在、私が取り扱いたいと考えているのは、本当のような嘘である。

男は女性をどれだけ理解しているのか、
女は男性をどれだけ理解しているのか、
恋愛関係でもいい、夫婦間でもいい、
男である私が女性の立場に立って男のことを考える。
その私が立った女性の立場の女性が、男性の立場に立って女のことを考える。

ずいぶんとややこしい文章になったが、その中で人間を捉えようともがいている。
「雑感」のなかにへっぽこな句が多いのはそのためである。例えば、女性の恋が切ないものと考えるのは男の勝手で、女性という生き物はその切なさをどのように昇華していくのかと考える、いや妄想することが、へぽ句を生む動機付けになっている。

腹痛の犬に飲ませる正露丸  帆波

題は忘れたが、この句が句会で抜けたときに「丸っきりの作り事はなぁ」という評価をいただいたことがあった。しかし、事実、知り合いの犬がよく正露丸を飲まされていたので、ぽっと出てきた句であった。確かに今読んでも作り事のように見えるし、いい句だとは思わない。その後も何度かこういう経験があって、嘘を扱うことで、逆に本当の姿が浮かび上がってくるのではないかと考えるようになった。
2004年09月


◎川柳の三要素

川柳の三要素として昔からよく言われるのが「穿ち」「軽み」「おかしみ」である。
しかし、昔からといっても江戸時代から言われてきたものではない。
明治時代、阪井久良伎が狂句を否定し、文芸性のある古川柳を定義付けることで、新川柳の文芸的特性の叩き台として分類し、発表したものである。
つまり三要素を土台に古川柳が作られてきたわけではなく、膨大な古川柳の中で、明治新川柳に受け継がれるべき句の要素だったのである。勿論、現代でもこれらは川柳の三要素として認識され、指導されているが、例えば、その多くが匿名で詠まれている古川柳と、作者名のはっきりしている現代川柳とでは「穿ち」の意味・内容がずいぶんと違ってくることは理解いただけると思う。また、作者自身の内面さえ句の素材になりうる現代川柳が持つ「おかしみ」は古川柳のそれとは意味合いが違ってくる。
「軽み」は現代でも(特に競吟では)強い武器であるが、「おかしみ」同様、取り扱う対象が外部から内面にまで広がった今、金科玉条の要素として扱うには物足りない場面も起こりうる 。
2004年09月


川柳の三要素といわれる「穿ち」「軽み」「おかしみ」はそれぞれ単独で表現されるものではない。
軽みやおかしみがないと穿ちは対象を貶めるだけのものになりかねないし、穿ちやおかしみがないと軽みは駄洒落や言葉遊びに終わってしまう。
おかしみに穿ちや軽みがないとあまりに自虐的な一行詩になりかねない。
このように三要素は相互に補完しながら、個々の印象の強い弱いによって分類されているものである。
従って、穿ちの句を作ろうとか、軽みの句、おかしみの句、とまず三要素があっての川柳作句ではなく、出来あがった句に対してそれぞれの要素が絡み合っているのかどうかと、推敲時に検証する要素だと捉えたほうがよい。
自分はおかしみのない人間だとか、穿ちのない、軽みの判らない人間だとか、だからいい句は作れないのではないか、川柳に向いていないのではないかなどと、いう考えにとらわれる必要は全くない。
2004年09月


◎盗作と暗合

十七音字しかなく手軽に誰にでも楽しむことの出来る川柳にとって、盗作と暗合(盗作とはまったく他人の作品を自分のものとして発表することで、暗合とは期せずして同じ着想、同じ語句の構成になってしまうこと)の問題を避けて通ることは出来ない。
句会の題詠を例にとると、同じ題を元にして参加者が作句するために、数十人、数百人と参加者が多ければ多いほど、着想の同一、上五、中七、下五の同一、または一字一句同一の句が生まれる可能性がある。
競吟の場合選者はそのいずれをも選考の対象にしないから(相打ちとして処理する場合が多い)その場ではどのくらいの率で暗合が起きているかを出句者は知ることが出来ない。
もし、全国で毎日作られている句を、課題別にすべてコンピューターに打ち込んだとしたら、課題によってはこの暗合の率は驚くほど高いものになるであろう。

句箋に対する正直な態度(過去に自分が見た・聞いた・作った着想を模倣せずに句箋に向かう)の上に起きたことなら仕方がないが、抜けるためや、賞品・賞金のために暗合を装うことは許されるものではない。
当然のことだがこれは盗作になる。厳しく言えば、自分の過去の作品(活字として評価されたもの)の模倣も、盗作に限りなく近いものだといえる。
もっとも着想の探求のための多作にまでそれを当てはめることは出来ないが、二重投稿の禁止というのは当たり前のことだし、たとえうっかりミスであっても、気が付いた時点で削除等の手続きを出版社、川柳社、柳誌に報告するのがマナーであろう。
川柳界に盗作が溢れているという訳では決してないが、作句する側は選考する側が過去に発表された句かどうかを常に意識しながら句箋に向かっていることを、十分に意識するべきだと思う。
2004年09月


漫談の綾小路きみまろ氏が、サラリーマン川柳を無断盗用したとかで、マスコミの話題になったことを覚えておられる方も多いと思う。
ワイドショーなどは盗作という事できみまろ氏のコメントを求めに殺到したのであるが、氏があっさりと盗用を認め、謝罪と共に著作物からの削除とその書き換えを表明されたことで、この問題は一応の解決を見た。
しかし、不思議であったのは、(私が知るかぎりであるが)川柳界からのコメントがマスコミの電波どころか、川柳誌にすら載らなかったことである。句会でもそんなに話題に上らなかった。サラリーマン川柳は川柳ではないと相手にしなかったのであろうか。
まさかそんなわけはあるまい。あれだけ盗作だ盗用だと騒がれていたのだから気が付かなかったわけでもあるまい。とにかくその状況は不思議ではあったが、私自身は氏を非難する考えは全く持たなかった。活字の句が音になるということにむしろ興味を抱いていた。
2004年09月


◎常套句・ルビ

句会でも柳誌でも誰かが新しい表現を発見すると、その言葉が氾濫することが多々ある。
「老い二人」「修羅の坂」「蜘蛛の糸」「愛燦燦」など挙げだすと切りがない。
こういった常套句をたやすく使う作句姿勢は、自戒も込めて反省しなければならない。
十七音の中に思いを込めるために、出来上がった素材を持ち込んでしまうことは、句の広がりといった点からいうともったいない行為になってしまう。
ルビを振ることもそうだ。基本的に句会では句にルビを振らない。これはルールというより、難解な語句に振るルビという枠を超えて、そう読ませることで意味の広がりを狙う表現が生まれてくることを防ぐためでもある。
良く見かけるのが「娘」と書いて(コ)と読ませる句だ。「息子」と書いて(コ)とは読まないのに何故「娘」の時だけ(コ)と読むのか。
(ハハ)と読ませるものには「亡母」「義母」「老母」などを見かけることがあるし(トモ)には「戦友」「親友」「竹馬」などを見たことがある。どうだろう、これでは何でもありになってしまう。
披講時に選者が、句を読んでいる途中で「トモ、戦友と書いてトモです」などと解説をしながら読み上げるのを聞くと、一句読み下した後で「戦友のことですね」ということは出来ないのか、そうでない句なら選考してはいけないのではないか、と感じてしまう。
音は「トモ」であっても戦友であることが理解される句であるべきだと思う。
2004年09月


◎常套句

常套句は確かに便利だ。
句会や柳誌などの、ある一定の閉じた系の中で用いられる場合、たやすく比喩・暗喩の句を生み出すことが出来るからだ。しかし、これでは誰に自分の思いを届けようとしているのか、そもそもの作句の出発点が違ってきてしまう。
抜けるための句であって、伝えるため、読ませるための句ではないからだ。

「酒」「雨」「妻」「雪」「風」「海」「北」「南」・・

多作のテーマとしてこれらの言葉を使い、作り込んでいくのとは違い、安易に置いてしまう常套句。

涙にも勝ち負けがある吾亦紅

涙にも勝ち負けがある老い二人

涙にも勝ち負けがある修羅の坂

涙にも勝ち負けがある蜘蛛の糸

下五が違うだけで、なんだかそれなりの句のような雰囲気が生まれる。解説をしろと言われても作った本人が解説できないシリーズだ。これでは一時間に百だろうが二百だろうが句が出来てしまう。気を抜くと川柳はすぐに語戯に陥ってしまう。
2004年09月


◎それは抜ける句ですか?

ある程度川柳をやっていると、驚くほど句会で抜ける時期があるかと思えば、全く抜けなくなる時期が来たりする。これは当然のことで、多作の過程で、表現方法の模索をするわけだから、自分自身がその時点で考える表現手法が、句会という環境にそぐわなくなる事も起きる。自分では良い句だと思っていても、句会・すなわち課題に対する集句の中では良い句ではないのだ。どうしてもそれが嫌だというのなら、傾向と対策を練って自分の思いを捨て、抜けることに固執するしかない。
簡単な方法を提案しよう。
書店や古書店で「類題別高点句集」というものを手に入れて、そこに出ている句を「上五」「中七」「下五」とそれぞれ別のノートに書き出してみる。
出来あがったらそれを持って句会へ乗り込めば良い。三冊のノートの中から課題に沿った句になるように言葉を探し出すのだ。
あっという間に「抜ける」句が出来上がる。
但しそこには貴方自身はいない。いくら抜けたとしても、その句は手の込んだ「盗作」に過ぎないからだ。
2004年10月


◎記憶に残る句

もう十年以上昔のことになるが

宝くじ気の狂うほど似た数字  三太郎

これは川上三太郎の句である。
この句を知って、上手いなぁ、面白いなぁ、と感心して直ぐの句会で「宝くじ」という課題が出たことがあった。
句箋に向かっても、川上三太郎の句が頭にこびり付いていて、句が作れない。どうしても「気の狂うほど」や「似た数字」という言葉が私の思考にアクセスしてきてしまう。何とか作っても、この句と比較してしまい、自身の駄句を句箋に書くことが出来ない。結局、出句出来ないまま、ぼーっと披講を聞いていたのを思い出す。
こういう経験はほかにもあって、

田中五呂八の

人間を掴めば風が手に残り

や小田夢路の

馬鹿な子はやれず賢い子もやれず

なども、私自身がその句の世界に引きずり込まれてしまっていて、課題からこれらの句を連想してしまったら最後、作句のペンが止まってしまうのである。
2004年10月


                                
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