川柳の技術的なことあれこれ VOL 3


◎作者と読者

作句スタンスが、伝統的手法と革新的手法を行ったり来たりしながら作者自身の川柳スタイルが形作られていくと書いた。手法の探求は、十七音字という制約があることで逆に作句者を燃え上がらせてくる。いずれのスタイルであれ、そのままではある時点を超えると独り善がりの作品になってしまう。読者の視点が見えなくなってしまう、作者イコール読者になってしまう。
句会や吟社にはその探求心を刺激する、川柳の扉が存在しているのだが、扉を開けてしまった者の作品を評価・評論するシステムが弱いのではないかと思うときがある。競吟では読者(選者であり出句者)を無視して作句することは出来ない。つまり独り善がりの句は通用しないのだ。
だからといって、表現の可能性を求める作句者の句箋は意味の無いものと言えるのだろうか。
2004年10月


◎句会川柳のギャップ

川柳は俳句と違って「季語」や「切れ字」などの決まり事が無いので、誰でも自由に好きな事が詠める。これは、俳句との比較で良く言われる事である。しかし、句会川柳ではどうもそうではないようだ。
ネット上の川柳を時間があるときに出来るだけ多く見るようにしているのだが、「誰でも自由に好きな事が詠める」という点に関しては、句会川柳を完全に凌駕していると思う。句会川柳の何が不自由さを感じさせるのだろうか。
川柳でいけないとされている事柄に、先にも書いたが「し止め」がある。
しかし、これは表現方法として淘汰されてきたという側面を持つものであり、厳密なルールとは言いがたい。大雑把に言えば、句会では通用しないが、世間では通用する場合もあるのだ。
川柳界(吟社・句会等の参加者)の方々が、マスコミ川柳に対してあまりいい印象を持たない理由の一つに、このギャップの存在が上げられると思う。
2004年10月


◎句会での暗黙のルール?

十七音字という定められた範囲で、自分の思いを読者に伝えるための表現方法を模索し、その中で、ある手法を誰かが発見し、それが句会で発表され、それを読んだ読者(すなわち句会参加者=作者)が、その手法をリサイクルしていく。こうして新しく発見された有効な表現方法が、あっという間に慣用表現になってしまう。その最たるものが「常套句」と呼ばれるものであり、「し止め」や「孫の句」であったりする。
これら過去に山ほど作られた表現は、手垢が付いてしまっているために、選考の対象にはならない、という「句会での暗黙のルール」に収納されていく。
2004年10月


◎選考基準・巧い

句会参加者は抜けるためにだけに作句をし、選者になったときにそのスタンスのまま句箋を選っているのではないか。
「課題」は作句のきっかけであり、「答え」という「句」を求める「問題」ではないはずだが、この「課題」でこの作り方は「巧い」という選考基準が句会では存在してしまう。この「巧い」という部分を手軽に一句に取り込む事が出来るのが「常套句」であり「慣用表現」であったりする。
作者と読者と選者が重なっているからこその現象ではあるが、本当は「課題」を外したところにある一句の評価(課題を詠みこむ詠みこまないは関係が無い)が選考の基準になるべきものである。
つまりは、「作者」が作った「作者の句」をどう評価するかである。
2004年10月


◎孫の句

「孫の句」は抜けない。という言葉がある。
孫は可愛いものだから、誰が詠んでも「孫は可愛い」という内容になるし、過去に膨大な数が作られているからどうしても陳腐な作品になる。だから「孫の句」は抜けない。こういう事が平気で語られている。
これは私には不思議でならない。
ちょっと考えてみよう。
最近では「孫が可愛いからオレオレ詐欺に引っかかる」らしいのだが、それを逆手に取る「憎たらしい孫」の話も聞くし、目にもする。
そういう「孫の句」も駄目なのだろうか。
何が言いたいのかというと、選考する立場に立った時に「孫」だけでなく「修羅」「老い二人」「蜘蛛の糸」などの常套句とされているものが「活字」として詠みこまれているだけで、選考対象から機械的に外して良いものかどうか考えてみたいからだ。
最後の文字が「し」なら全て「し止め」として句を読まずに没にして良いのだろうか。
読んでも没かもしれないが、選考は形ではなく句意に重きを置くものだと思う。
2004年10月


◎劇団ひとり

ずいぶん前のことだが、深夜に面白いテレビをやっていた。
素人の視聴者から「最近のお笑いは面白くない。俺の方が面白いから勝負しろ」いう訴えがあり、若手漫談家とその素人が大喜利で対決するというものであった。結果、素人はやはり素人、面白くはない。
だからといって本職もそんなに面白いとは感じなかったが、お題に対するレスポンスというものはやはりプロである。(編集ということもあるがそこまで考えると自分自身が面白くないのでやめるが)プロの中に、最近よくテレビでも見るようになった「劇団ひとり」が出ていて、興味深い事を言っていた。
面白くない素人に向って彼は「大喜利のお題を問題だと思ってるんじゃないか、答えを書くのが俺らの商売じゃねぇんだぞ。クイズやってんじゃないよ、お笑いやってんだよ。」
私はこの言葉にドキッとした。句会川柳もこうでなくてはいけない。
句会場で、ついつい答え探しをしてしまう自分が句箋の前にいるのだ。
「クイズを解いているんじゃない、川柳をやっているんだ」
と言いきれない自分が悔しくてたまらなくなった。
それ以来「劇団ひとり」のファンになっている。
2004年10月


◎義母

家中を磨いてお母様を待つ 帆波

以前NHKの大会で選んでいただいた句であるが、どういうわけか「鑑賞のコーナーで使わせて頂きました」と、画用紙に綺麗に清書されたものが送られてきた。
せっかくだから額に入れて仕事先に飾っておいたのだが、出入りする人やお客の多くに、この句の意味が通じない。
みんな「何故自分の母親にお母様って言うんだい」と私に聞いてくる。
私は「義母」と書いて「ハハ」と読ませる事が嫌なのでこの様な仕立てになったのであるが、全体から「お母様」=「義母」と読み取ってもらえなかった。
説明をすると「何だ、そういう事か」で終わってしまう。川柳をやっている人には句意が通じるのだが、そうでない場合には通じない。さて,どちらに重きを置いて作句するべきなのだろうか。
私の中では「家中を磨いて義理の母を待つ」では川柳にはならないのだが。
2004年10月


◎問題のないのが問題

川柳は哲学である。と言う川柳家は多い。
「人間の本質への共感」を求めるのであるなら、それは哲学に他ならない。しかし、その表現が世間の「川柳」への認識とかけ離れていることも事実である。
この世の中に「川柳」という言葉を存在せしめているのは、川柳を「滑稽」や「風刺」と認識し、その力を求める世間一般の声であり読者であり消費者であり…これらを一括りにして「大衆」または「世論」と呼ばれるもの達である。だからと言って「川柳」は常に「大衆」の味方でなければならないのであろうか?はたして、「世論」・「大衆」と括られる集合体は常に正しいのであろうか?
その疑問も川柳家にとっては、探求・表現の対象になる。皆が万歳をしている時に、万歳の裏側を抉ることも川柳の存在意義ではないのか。
難しい川柳は、難しいのではなく、つい簡単に見過ごしてしまう人間の人間たる部分を曝け出す、精神活動の手法ではないのか。つまり、「問題が無いこと」が「問題」なのである。
2004年10月


「問題がないことが問題である」というと、これから川柳を始めてみようという人を白けさせてしまうかもしれないが、簡潔にいうとこうなるだけであって、川柳を作るという観点から言えば、そんなにややこしい事ではない。
朝起きて顔を洗い、歯を磨く。
当たり前のように見える行動だが、はたして毎日同じ「朝」だろうか?
「昨日」が同じ「昨日」でなかったように、同じ「朝」というものも存在しない。
従って同じ行動でも、同じ自分が行っているとは言えないのだ。そこに川柳の種が落ちている。
気付く気付かないはセンスではなくて、意思があるか無いかだけの事。
故佐藤正敏氏から「句が作れて眠れない時がある」という話を聞いた事があるが、そこまでいかなくとも、気付く意思があれば句材は幾らでも存在しているものである。
2004年10月


◎二物衝突

句の中に、違うもの同士を並べることで、または衝突させることで、理屈では割り切れない感情や思念(情念)を表現しようとするやり方がある。
二律背反を考えると解り易いのだが、相互に矛盾し対立しながらも同じ力加減で存在する事象は、人間という生き物には当たり前のように存在している。精神活動一つ取っても、道徳的な連想と非道徳的な連想が同じテンションで簡単に行き来する。そんな人間であるが故の、自己矛盾点にスポットを当てることへの欲求が、複雑怪奇な一行詩を生み出すきっかけにもなっている。
複雑怪奇と書いたが、一瞥して平易な言葉で日常を詠んだものであっても、その背景を深く掘り下げていくと、表層で表されているものとは違ったドラマを楽しむことが出来る。
もっとも、それは読み手自身が川柳の「作者」としてそういった事を求めようとする経験を持っていることが前提になるのであるが。
2004年10月


◎算数川柳

昔、学習塾のCMで算数のドリルを比較するものがあった。
日本では算数のドリルといえば

3+5=□、

2+6=□、

3+8=□、

のようなものであるが、外国では違って、

□+5=8、

□+□=12、

□+8=1□、

と答えが一つにならないものもある。
何でも外国のものが良いとは限らないのだが、いろいろな答えがある方が面白いし、子供も興味を抱く。
頭の使い方に柔らかさが出るというか、塾のCMとしてはよく出来ていると思ったものだ。
川柳を作るときに、出句先(句会、柳誌、雑誌など)によって、意識するしないに関わらず、作風を変化させている事がある。
つまり「句」が日本のドリルでいう「答え」に なっている場合がある。

「題」+「選者の癖」=「句」や

「題」+「抜けそうな傾向」=「句」

これが駄目だと言うわけではないが、句の構成上「選者の癖」や「抜けそうな傾向」といった部分が、世間一般に受け入れられるものなのかどうかの疑問が残る。また、ここには作者の思いや個性といったものが無いし、あっても句に占めるウエートが小さい。
答えが一つにならない外国のドリルではどうだろう。

□ +□=12、

この空白には5・7、3・9など作者の好きなものを入れる事ができる。
だから答え合わせする先生もきっと楽しいに違いない。

「作者の思い」+「句の仕立て」=「題」
(この場合句そのものは左辺全体になる)または

「作者の思い」+「題」=「句」等でもいい。

いずれにしてもある特定の集団でないとの理解できない傾向や癖といったものが入り込む隙間はなさそうだ。
川柳を算数のドリル式で考えれば、皆外国の算数ドリルのような心構えで句箋に向えばいいのかというと、そう言い切れない点もある。ここが微妙なのだが、句会で抜ける抜けないに固執する余り、自分の思いを句にするというよりも、パズルの答え捜しをしてしまう。
だから、自分の思いを軸に課題に取り組む、しかし、自分の思いを句にすることに拘り過ぎると、世間一般に受け入れられるかどうかの視点を飛び越えてしまう。

つまり、□+□=12

の□の中に、

4、8、5、7、などを入れていく表現が陳腐に思え、物足りなくなっていく。
だからといって、3.5、8.5、4.95、7.05、などを記入し出すと、「正解だけど何か違うだろう」ということになってくる。有理数だ無理数だ虚数だといっていては世間の常識とどんどんかけ離れてしまう。
解る人には解るし、味わって鑑賞もしてくれる。
でも川柳に瞬間の笑いや、社会風刺を求めている人たちにとっては面白くも何とも無い只の一行詩だ。
自然数だけを使って、今までに無い綺麗な式を奏でられれば最高なのだけれど。
2004年10月


◎作句「見つけ」

自分の句をあらためて見て思うことがある。
大きく分けて「○○は○○のような」という形のものがやたらに多い。
あるものを何かに喩えることで発生する面白さは、川柳の手法として間違いではないのだが、頭で作るというある種の「手軽さ」を伴っている。
一読明快でない、比喩・暗喩・詩性を有している句は、即吟・即選の句会にそぐわない一面を持っているのだが、作句衝動の観点からは魅力のある分野でもある。
「○○は○○のような」という作りは、その二つの隙間を埋めるのに結構都合のいい手法なのだ。一読明快を考える場合、自分というものが強く出てしまうと他人との共有性が薄れていってしまう。誰もが感じ、誰もが見るような状況を見つける事が、比喩・暗喩・詩性とは違う川柳の醍醐味である。
ところがこれが結構難しい。頭だけでは作れないのだ。自分の目で人間を観察し「見つける」ことをしない限り、なかなか上手くいかない。
2004年12月


「見つけ」は寄席に落ちていることが多い。川柳を作るために寄席通いをするべきだ、などと言うわけではないが、漫才や落語の中に出てくる市井の人間の表情・行動は、世間との共有性がないと笑いという感情に結びつかない。木戸銭を払ってまで後味の悪い笑いを楽しむ人などいないだろう。寄席の笑いの質は、テレビのそれとは微妙に違うものだ。
川柳は選考者によって句が世間の目に触れる。選考者はそれを披露することによって世間の目を楽しませる。
出句者が「見つけ」を重ね、選考者が質の良い「見つけ」を披露するのであれば、川柳が世間との共有性に悩む必要はないのだ。
いや、私自身が悩む必要がないのである。
2004年12月


「見つけ」というのは私が勝手に言っていることで、勉強会や川柳作句本でいう所謂「発見」とは意味合いが違う。
「発見」とは表現方法の発見であり、作者が見た状況をどのような言葉で表現するのかということである。
「老い二人」や「修羅」「背中」など定番語といわれている言葉も、状況(作者の思い・感情)を表現するための使用法を誰かが「発見」したわけだ。表現法として広まりつつある時期は、感情表現として有効なのだが、広まり尽くすと陳腐になってしまう。読む側に「既視感」が生まれるからだ。
「発見」はそうそう生まれるものではない。からこそ作者は他人の発見を流用してはいけない。
狭い句会の中であっという間に消費されてしまう。せっかくの種を自分達で踏みにじってはいけないのだ。
2004年12月


「発見」はある程度頭の中でも出来る。訴えたい主体があったときに、その主体をどう効果的に読み手に伝えるかの方法でもあるからだ。自分の中に十分なだけの語彙が存在し、ある感情を揺さぶられた瞬間、作句衝動に駆られた時、その感情と語彙がスムーズに繋がる人間がどれほどいるだろう。
その繋がりが詩的であったり、アイロニーに富んでいる人間がどれほどいるだろう。
まずそんな人はいない。
だから辞書を繰り、新聞雑誌、書籍、テレビ・ラジオ、五感を働かせてありとあらゆる外界の情報を集めようとするのだ。そこから「発見」を導き出そうとするのだ。
以前、人生の長さがすなわち柳歴だという事を書いたが、初めて句箋に向かう人でも、それまでの人生から得た語彙が「発見」に繋がることがあると私が考えているからだ。たとえそれが柳界では使い古されたものであっても、作句姿勢として間違っているものではない。間違っているのは、使い古されたことを知っていながらそれを使う姿勢である。
2004年12月


では、「見つけ」とは何なのか。簡単に言うと人間の所作なのだが、動物である人間が、その知恵をもって築き上げた社会というシステムと、個々の人間の欲求との齟齬の部分にある可笑しさ・切なさを見つける事である。理論的感覚としての人間ではなく、肌感覚としての人間を主人公とした句を求めたいのだ。

A IQの高いアホウが世にあふれ  帆波

B 市役所の老眼鏡が家にある   帆波

Aの句は” IQの高いアホウ”という表現の「発見」で成り立っている。対してBの句は一見、状況の説明であり報告でありながら、ついうっかりやってしまう行動の結果を「見つけ」たものである。
多作していくと判るのだが、B系の句を作るのはとても難しい。一日人ごみの中にいても、自分がそれを見つけられない可能性の方が高い。
自分という人間が他人を観察した結果として生まれる句に、自分が出過ぎてしまっていては「見つけ」の面白さが成り立たない。経験からいうと、推敲の段階で省略に省略を重ねた句が、着想の段階で「見つけ」であった句を超えることは難しい。
作句というものは、句会で抜ける抜けないという次元の話ではないのだ。
2004年12月


「見つけ」というものを考えた場合、句は簡単に出来るものではない。兼題から始まる句会の場合だと、一度題を自分の中に取り込んで、自分の経験の中の「見つけ」と組み合わさなければならない。
兼題の周りを回るのではなく、自分の「見つけ」の周りに兼題を巡らさなければならない。与えられた題に対して、過去の入選句を紐解き、着想の緒としてはいけないのだ。どうしてもそこに辿りつけなくて満足な句が出来ないことが多い。
だが、それはそれでいいのだ。極端を言えば、模倣に甘えるよりは句箋を余らせた方が良い。
実は、全ての句選に満足できる句を書き記せたとき、句会はそこで終わっているのだ。
披講は他者の「見つけ」や「発見」を楽しむ空間なのだ。
2004年12月


抜句結果がどうであれ、満足できる句を書き記せた時点で句会は終わっていると書いた。私がそう思うようになったのは、多作の手法として、兼題全てに対して出切る限り多くの(五十から百句)句を作り、それを自己選して句会に望む、という事を何度か行ってからである。
中には私の力ではどうしても句にならない着想もあったのだが、それらも含め披講された句のほとんど全てが、私のノートの中に存在していた。
題によっては一字一句同じものまであった。
私が句に出来なかった着想が句として披講されたとき、その作者に対して、悔しいというよりも、嬉しい・ありがとう、という不思議な感情が沸き起こった。
句を作った時点で句会は終わっている。
その中から自選するときに、抜ける抜けないを取るのか、自分が川柳として認めたいものを取るのか、柳人それぞれに考えはあるだろうが、私は後者を取っていきたい。
200412


他人の句を聞いて、見て、悔しいよりも、嬉しい・ありがとうという感情をもっと句会・柳誌で楽しみたい。だからこそ選者は技術よりも「見つけ」「発見」をしっかりと見極めて欲しい。でたらめでは困るが「見た事もない句」を抜いて欲しいものだ。そうしないと川柳は前へ前へと進めないではないか。
合点云々のための位付けが、作句へのモチベーションとして機能しているのだから、それを否定するつもりはない。ただ、それにおぶさった選をして欲しくないのだ。
披講は選者の作品である。座を重視する、誌面を重視する、それぞれに対してのエンターティメント性が欲しいのだ。
好みや、良い悪いという比較だけで単純に順を付けないで、30句40句取るのだから、山や谷、つまり沸かせる場面や味わう場面を演出してもらいたい。
五客三才の披講に入った時に、参加者が片付け始めたり、あきらめたりしない緊張感のある句会を、出句者・選者ともに考えなければならない。
2004年12月


◎作句の迷路

子供の学力低下、国会議員の発言等、聞き手・読み手に物事が上手く伝わるかどうかの難しさを考えた時、川柳は言葉や文章と違って“十七音”しかないのだから、作者の思いを伝えるというのは本当に難しい。
言葉をちりばめれば、五・七・五の調子、もしくは内在している七五調から外れてしまい、口数の多い一行誌になってしまう。
だからといって比喩を多用すると、読者が自分と同じ言葉や感情を共有していることが前提になり、判らない人には全く判らない、という結果に陥ってしまう。
では世間の認識通りの十七音を作っていれば良いのかというと、読者は判り安いだろうが作る側として物足りなさを感じてしまう。もっと自分を表現できるのではないか、もっと事の本質に迫れるのではないか、
一読明快、面白いものを読みたいという読者の欲求と(消費欲求とでも言おうか)作り手の、作っていくが故に生まれる欲求とのギャップをどう考えていけば良いのだろうか。
2004年12月


◎冬ソナvsジャニーズvs川柳

さて、冬ソナ系は川柳で使える。題材になる。
ではジャニーズ系は何処まで川柳に使えるのだろうか。
句会ではジャニーズ、ジャニーズ系という言葉は使えても、タレント個人となるとせいぜいキムタク止まりだろう。流行りもの、一過性のものを句に取り込むことは、それだけで句の寿命を短くしてしまう。
これは時事川柳の宿命でもあるが、だからと言って時事を扱わないということにはならない。川柳は時代の代弁者でもあるからだ。
では時事とは何を指していうのだろう。
ヨン様は時事で、八乙女君は時事ではないのだろうか。まだ時事に成り切れていないということなのだろうか。
つまり、時事を時事として認識させるのは社会であり、世論である。人間の集合体であるということだ。
みんなが理解するということは、個々人の理解の幅の中に共通性が生まれるということである。その共通性を浮き彫りにしただけのものを、時事川柳・川柳と呼んでいいのだろうか。その共通性を土台とし、そこにある人間性を詠むのが川柳ではないか。
そう考えると私の作っているものは川柳ではない。情けないことだが、まだまだ見えていないものが多い。
2004年12月


◎心象の考え方

以前私は、日常生活のどんな瞬間にも川柳がある、
と書いた。今もそう考えている。

それではこの書き込みの中にも川柳は存在しているのだろうか。
そのままの状態、つまり
「八乙女光」
「クォンサンウ」
「ブラウザ」
「ライブドア株主総会」
などの言葉を時事川柳的手法で扱ったならどうだろう。

前に書いた

RB26神の声に似て 帆波

と同じように、川柳とは呼べなくなる。
何故ならまったく「私」の「個」に属する出来事であり、その言葉を内包する川柳は、読み手との共有性を持たないからだ。
この様な心象を句にする場合「平易でわかりやすい」という言葉の意味をよく考えなければならない。
誰が読んでも意味が通るということは、作者の個別の出来事まで読む側に理解されなければならないものだろうか。
心象はあくまでも心象を理解してもらえれば良いのであって、その心象を生み出した状況まで正確に伝わらなければいけないものではない。そんな事を考えている。
(時事川柳的手法と書いたが、川柳を手法で分類し優劣をつけるつもり出はない。トピックを活字として句の中に取り込む事をそう呼んだまでである)
2004年12月


作者が「私はこう思った・こう感じた」というものは個人的な事象である。
その事象を表す具体的な名称や、それによって引き起こされた感情をそのまま取り入れた句は、単なる個人的感情の報告になる。独り善がりということだ。
全ての他者に理解してもらおうとすれば、句は限りなく文章に近づく。
また、読者に「この人はこう感じたんだ」で流されてしまうものも、句というよりは文章になってしまう。
その間に存在する「句」という表現方法をどう定義し、どのように作っていくのか。
理解してもらいたいというものが単なる願望でなく。理解させたいという欲求が解説・説明にならない。語らずに匂わせる。省略することで広げる。
よく言われる言葉だが、的を得ていると思う。
2004年12月


全国誌や総合誌、各柳誌の巻頭から数ページを飾る句には、このところ心象句的なものが多い。
よく難解だという投稿を読者欄に見かける。確かに素人目には「これが川柳だ」と言われて頷くことが出来るものが少ない。
一つの句として鑑賞すると、みなそれぞれに味があって面白いのだが、世間の認識とずれがあることはここでも何度となく書いている。
そんな時いつも思うことがある。
川柳が「句」そのもので話題になったことがどれくらいあるのだろうかと。

老人は死んでください国のため

宮内可静氏のこの句が話題になったことがある。選考したのは柏原幻四郎氏である。ここで句の良し悪しを蒸しかえすつもりはない。
言いたいのは、川柳界に何故当時の様な句を話題にした論争、評論がほとんど起きてこないのかということである。
心象が流行っているときは句会・柳誌でもそのような句が沢山生まれる。いや「抜ける」とあえて言おう。
川柳界の評価は、誰がどのくらいの数、どんな位付けで抜けたかで決まっていいのだろうか。
句会でも大会でも終わったあとは「抜けた抜けない」「出席者が多かった少なかった」の話しばかりで、「こういう点であの句は良かった、いや詰まらない、云々」という話しはほとんど聞かない。
心象句は論評される事で評価が定まっていくはずのもので、流行り廃りで、抜けるために模倣されるものではない。
「良く抜けるから、そういう風なものを自分も作ろう」的コンセプトで挑むものでもない。
伝統・革新という前に、句を詠むと言う、根本の成り立ちを考えるべきではないか
2004年12月


心象っぽい句に仕立て上げるのに、手っ取り早い方法がある。
上五や下五を投げっぱなしにするのだ。
意外な言葉で、読者が好き勝手に解釈出来るよう、おぼろげな言葉を持ってくるのである。
そうするとなんとなく格好良い句が出来あがる。判りやすくいえば雰囲気の模倣である。一丁上がりである。
例えば、

なんとなく格好がいい指が好き

こんなものだ。読む人がそこに何かを感じれば良い句なのだろうが、作った私自身が何かをテーマにしたとか、感傷的な思い出があるものではない。
言うなれば私の過去の作句の雰囲気の模倣なのだ。
私が、他の分野と川柳の大きな違いとして感じているのは、作品が鑑賞・評論されるのではなく、人口に消費されることのほうが多いという点だ。
サラリーマン川柳やマスコミ川柳、標語などもそうだが、世間に消費されることで広まっていく。
一読明快であったり、駄洒落であったりするものは、瞬間的に理解され伝播していく。
しかし、現代川柳は一度体内に取り込んでから理解されるものが少なくない。特に心象句はこれを単純に、テクニカルに、インスタントに理解するというようなものではない。
川柳家はなにも、複雑で難しいものを詠もうとしているわけではない。
句で表されている、事象の裏側の思いを、汲み取ってもらいたいだけなのだ。
月並みだが、平易な言葉の裏側にあるドラマを綴りたいのである。
2004年12月


                                
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