川柳の技術的なことあれこれ VOL 6

◎定型について

カタカナの言葉が氾濫し、最近ではアルファベット表記の経済用語などが世間を騒がせたりする。
その中で五・七・五を守っていけるのか、という意見もある。

確かに何でもかんでも上五に背負わせて七・五調を維持しようとしても上手く行かない場面もある。だからといって安易に八音、六音を受け入れていいものだろうか?
定型があるからこそ、表現上の非定形の意味が存在できる。
はじめから非定型や、字余りでは、川柳というカテゴリーの中で伝わる意味性において限界が出てくる。定型の持つ安定感を崩すことによって伝わる、作者の心象表現というものが存在できなくなってしまうからだ。

数十年後の未来のことは分からないが、現在において定型を崩してまで川柳を詠まなければならないほどの必然性・必要性を私は感じていない。
2005年7月

◎回文

「回文」というものがある。
上から読んでも下から読んでも同じになるという例のものだ。残念ながら「山本山」は回文ではない。
簡単なところで「トマト」「近畿」(これは簡単過ぎだ)
「私負けましたわ」などである。
様々な雑誌 でも回文川柳コーナーを設けて募集したりする。私も過去に何度か投稿したことがある。

 回文川柳 帆波
見たいまま 裸体置いたら ママ痛み
今朝の滝 覗きて木曽の 北の酒
通の酒 片手出てたか 今朝の鬱
大都会 余談なんだよ イカといた
留守宗男 シラ切る気らし おねむする
敏感さ ママの気のまま 参観日
猿ほどに お見事ゴミを 二度掘るさ
没だ皆 目頭しかめ 涙壷

以上のようなものを掲載していただいた。

川柳だから、五・七・五で回文になればいい。
ということは、五音の回文プラス、三音の回文プラス、助詞一音が見つかれば大体できてしまう。
そのうちワープロ(この頃はワープロを使っていた)に平仮名を打って変換し、少し直すという作り方をするようになってしまい、結局飽きてしまってこのところ投稿をしていない。

この「回文」読んで字のごとく「文」として成り立つことが本来の楽しみ方であろう。
五・七・五では機械的作業になってしまうが、文章となるとたいへんだと思う。
雑誌の投稿には、とんでもなく長い作品が登場することがあり、感心と敬意をもって眺めている。
2005年7月

◎時事川柳の難しさ

句の中に作者の実存があるのならば、時事川柳をどう考えればいいだろう。

私は時事川柳について
「いずれかの立場に偏ることない視点で事象にあたりたい」
という事を書いている。
これでは作者の実存があるとする作句の姿勢と矛盾してしまう。
実はこの点が時事川柳の難しい部分なのだ。

時事川柳はその性格上、作者の思いよりも、読者の共感に重きを置く。
つまり句の成り立つ土台が作者個人にあるのではなく、社会的共有性にあるのだ。
そこから始まる穿ち・風刺であって、作者のパーソナリティーによる発見や見つけが視点の始まりではないのだ。

確かに事象の解釈の方向性には作者の個人的心情が現れるのであるが、それが頭から「この人はこういう人だ」的認識を読者に感じさせてしまっては、時事川柳にならない。

事象に対して感情で向うだけでも、理論的土台の上に感情を積み重ねていくだけでも時事川柳にはならない。

例えば
「憲法を改正しよう」
「憲法改正は許せない」
は、どちらにも理がある。
その理論の上に、心情・感情を重ねていくだけでは、作者の実存の構築になるだけだ。

時事川柳の視点は、その両論が存在し・渦巻く、社会そのものを観察し、そこに発見を求めることにある。

ひとまず自分の感情を横において、人間社会を検証することが必要になるのだ。
2005年7月

時事川柳は実際難しい。

自分で作っても、一月も経てば意味がすぐには思い出せないものもできてしまう。

特に柳誌などの投稿では、締め切りの後に選考があり、それから原稿になって掲載されるため、最低でも一ヶ月のタイムラグが生まれる。

また、締切日前後に大きな事件・事故が起きた場合、事象が大きければ大きいほど、マスコミ等で短期間に消費されてしまうために、発表されたときには色褪せた作品になってしまう。

賞味期間が非常に短い。
この点を時事川柳の欠点だとして評価されない方もおられるが、逆に捉えると時代の旬を後世に残す貴重な資料だともいえる。
「一年を時事川柳で振り返る」という企画が雑誌や新聞で行なわれているが、こういった時事川柳の扱い方がもっと一般的になれば面白いと思う。

例えば、週単位、月単位で振りかえってみるのも面白いのではないか。

もっとも編集者には大変な手間になってしまうのだが。
2005年7月

例外もあるが、時事川柳の賞味期間は短い。

このことは時事川柳と意識して作句する場合、頭の隅に置くべきことだと私は考えている。
この部分を曖昧にしてしまうと、時事が世相になっていく。

世相となると、ある程度の時間的な広がりを扱うことができるし、また、起きた事柄の社会的認識も落ち着いてくる。

これは悪いことではないのだが、時事として意識して作句する場合、油断するとありきたりなものに流れてしまうことになる。
下手をすると歳時記のような時事川柳を作ってしまう。

年末年始、進学進級入社シーズン、雛祭りに子供の日、
鬱陶しい梅雨、夏休みに、八月十五日、敬老の日、
食欲の秋、読書の秋、七五三・・etc

雑詠や題詠ではなにも問題になることはないのだが、時事川柳というカテゴリーにおいて作句するのであれば、こういった日常的な括りの中で着想をしているかいないかを自分自身で見極めなければいけない。

よく新聞の時事川柳欄に並ぶ句が難解だといわれる方がおられるが、そこが時事川柳故の難解さ、つまり読者としての自分が知らない事象を扱った作品も存在するということなのだ。

そういう点では時事川柳の選考は難しい。

選者は毎日の出来事に目を通していないと選考する事ができなくなる。
大きな出来事は沢山投稿される。題詠でいえば同想句ということになる。事象によっては全く同じ作品が寄せられる事もある。
そういうところを潜り抜け、尚且つ社会的共有性を持っていなければ作品として成り立たない。

新聞、雑誌ならばそこに、作句はしないが読んで楽しむ、という読者層が存在する。趣味の世界とは違い、世代も考え方も違う大衆が相手なのだ。
そこに時事川柳の存在意義があるのだと思う。
2005年7月

世代も考え方も違う世間に対して発する時事川柳の意味は大きい。
それは、社会に対してのリテラシーを習得させ得るものであるということだ。

思想信条をもって社会をリードする、他人を統制する、という行動に対するアンチテーゼでもある。

判りやすくいえば、騙され難い人間を育てるということである。
現象の奥にある部分が、全体にどういう影響を与えているか、それを見る視点を訓練することになる。

例えば、テレビの放送を観ていて、その映像を撮影しているカメラが立っている位置を想像できるかどうかということだ。

だからといってへそ曲りになれ、独りよがりになれ、ということではない。時事川柳である以上広く一般に理解されなければならないからだ。

そういった意味で、物事を見るバランス感覚を養うのに適していると思っている。

「川柳を教科書に」という声を見聞きすることがあるが、それならば時事川柳がもってこいだろう。読むことも、作ることも、教育上の効果は高いと思う。

ただ、教師が上手く説明できるかどうかや、文部科学省が許可するかどうかはわからないが・・。
2005年7月

私はよく、テレビや映画を観ていて突っ込む事がある。
小さい頃からそうなので、家族であれ人と一緒にテレビを観ていると怒られてしまうことが多い。

「テレビの放送を観ていて、その映像を撮影しているカメラの立っている位置を想像できるかどうかということだ」
と書いたが、実は、映画・ドラマ・文芸・大概のエンターテインメントは、観賞する側から突っ込まれるものほど評価が高くなる。

日本テレビで放映された 「女王の教室」は久しぶりに突込み所満載のドラマだった。

天海祐希扮する鬼教師、阿久津真矢は、権力と差別と偏見と恐怖によって生徒を管理下に置いてゆく。

まさしく厳しいのではなく怖い教師なのだ。

中学校の時の先生に「俺は怖いんじゃなくて厳しいんだ!怖いと厳しいの意味をよく考えろ!」と言われたことを思い出した。
当然、番組掲示板は賛否両論。
というより、否定派(第一印象でアレルギーを感じた側)の論に突っ込むことによって肯定派(理論的欲求を満たそうとする側)が生まれ、それをまた突っ込む。

つまり、感情と理論のキャッチボールが、拡大再生産されることで、より多くの人々の目に触れ、番組そのものの収益・価値が広がっていく。

それに加えてもう一つ仕掛けがあって、新世紀エヴァンゲリオン の時もそうだったが、製作者側がテーゼを提示しないまま、一つのムーブメントを作り出そうとしている。

だから、本編に加えて周辺までが話題として消費の対象になっていく。
最近の話題になる(売れる)定石を踏んでいるのだ。

川柳もそういうところがある。
突っ込みを入れられる川柳はいい。
但し中八だの何だのの技術的なことではなく、その句が表現している事柄、仮にフィクションの部分があったとしても、表現しようとしている人間の部分にそれだけの話題性を有しているものが面白いのだ。

もっとも、視聴率ドラマの仕掛けとは違い、定立がないと句としては難しい点はある。

時事川柳は句そのものが事象に対しての突っ込みになっていると同時に、そこで表現されている事柄に対して読者から突っ込まれるものが面白い。

「そうだよな〜」「そのとおりだよ〜」ではファンだけにしか共有されない。

「甘ちゃんだね〜」「理想はそうだけどね〜」のように、アンチにも共有されるスペースがあることが理想的だと思う。
そういう意味で時事川柳は、雑詠・題詠に比べてより読者を意識しての作句になるのである。
2005年7月

◎川柳とエロティシズム

川柳とエロティシズム(性)について考えてみたい。

万句合せの末番句の中から抄出された 「俳風末摘花」というものがあるが、その中には性というよりは助平と表現した方がよいものが多い。
確かに密かな楽しみとしてはセンセーショナルな部分があったのだろうが、それが川柳の品位を落としているとして批判の対象にされることもある。
広く社会に発表されることを前提とするのであるなら、常識的な品性というものを自ずから考えなければならないが、性の問題というのは人間を扱う上で避けて通ることは出来ない。
にも拘らず、嗜好、癖、といった非常に個人的な部分が強いため、見つけ、発見という表現においての共有制を持たせることが難しい。

また、商業的であるなしに関わらず、活字として性を語る場合、男性側からのものが多く、表面的な覗き見的表現が多かった歴史もある。
そしてそこに表現されてきた性は、結果としての行為であり、そこに繋がる心的内面の感情の変化を扱うものではなかった。

男性が作る川柳は、男性であるが故に、性のプラトニックな部分(エロスとして昇華された部分)を扱えなかったのだろうか?
林ふじを、時実新子氏など、女性として性の感情(それは、女性から見た社会であり、男でもある)を切り開いた作家はその後も数多く出ているが、男ではなかなかいない。

扱えなかったのか、扱わなかったのかは判らないが、人間を扱う以上避けて通ることはできないと考えている。
2005年7月

末摘花で扱われている性は、主に男女の関係である。
しかしこれは男からの視点であり、また「駿河女」や「下女」など、男の欲求を満たすのに都合のいい女性像が慣用句として用いられるほど、作品としては直接表現であり、下卑た笑いと認識されても仕方がない作品が存在する。

本当はそんな作品の中にも当事の風習、風俗を知る貴重な描写があるのだが、それは研究者のテーマであって、実作として考えると心象的に深い部分まで追求したとはいえない。
性愛、情愛に関しては川柳をして手付かずな部分がずいぶん残っているカテゴリーだなと感じている。

しかしこのカテゴリー、現在、女性作家の独壇場のような気がしている。
心理描写・比喩・暗喩、ポーッと見ているとただの呟きにしか見えない作品の奥に、女性だから辿り着けるのではないかと思う感情の煌きを見ることがある。
2005年7月

時実新子氏の「有夫恋」は、川柳というカテゴリーにとどまらずセンセーショナルな作品集であった。
昔は、女性が恋や性を語ることは「はしたない」という考えがあり、それは今でも保守的な人達の考え方の核ですらある。

しかし、文芸・文学であるのならば「はしたない」かどうかは別として、実際にそれを考え、それに悩み、それに悦びするのであれば、それを扱わないほうが「はしたない」のである。

人気ドラマと時事川柳のところで、テーゼが無いことでその周辺をも巻き込んで消費対象とするエンターテインメントと、テーゼ(定立)がないと成り立たない川柳、ということを書いたが、男女の情愛をテーマとする作品の場合は特に定立を意識していないと、覗き見的な作品で終わってしまう。

自戒も込めて、このことはじっくり考えておきたい。
2005年7月

川柳の中のエロティシズムは、なにも情愛の句の中にだけ存在するのではない。
触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、人間の五感はそれぞれ何処かでエロスに繋がっているし、性欲、食欲、排泄欲、睡眠欲、などの欲求もエロスに繋がる。
人間が身体的、精神的に欲求を有している状態とは、何らかの緊張状態にある時のことをいう。
五感が緊張し、欲求の開放を求めている時の人間にはエロスが存在する。
つまり「ヨーイドン!」のその瞬間にエロスが存在する、ということだ。

私は、一般にバレ句と呼ばれるものの存在を否定はしない。
それを考え、構成し、築き上げるのも人間の行為であり、それを観賞する時に起きる感情の昂ぶりも人間の業だからだ。

ただ、エロティシズムを考える場合、そうした直截的なものだけではないエロスも存在し、それもまた川柳に取り込む事が出来るという事も同時に考えてみたいと思っている。
2005年7月

◎既視感

このところ句会で披講を聞いていて「おや?」と思うことが多くなた。選者氏の世代交代の途上という事もあるのだろうが、過去に出尽くした着想を聞く場合が多い。
「この題で、その着想、その造り方は、もう古い」と感じてしまうのだ。

また「句会の句」も目立つ。
句の内容よりも仕立ての巧みさで抜かれる作品だ。
もっと新鮮なものが聞きたいのだが・・

ところが自分が作句する場合に、こういう見方が枷になってくる。そうやって句会で楽しんできたのだから当たり前の事なのだが、作句の幅がどんどん狭くなっていく。
そのうち出句数の3句すら出来なくなってしまう。ノートに書くもの全てが過去の焼き直しに思えてきてしまう。
こういう感じは周期的に訪れるのものなのだが、実際に辛い。

そして「見つけ」だけは多読・多作を重ねてもそうそう身に付けることが出来ない・・。
2005年7月

◎印象吟

句会の題詠で、焼き直しの着想をこね回すのは、才能の限界ということもあるが、出題される「題」にも理由がある。

名詞、形容詞、動詞・・etc
様々な形で出題されているが、過去の抜句傾向から、大まかな仕立ての傾向というものが存在する。

それを捨てて、つまり第一発想を捨てて作句にあたるのだが、実際月に何回も開催されている句会で、全ての出句数を常に新しい発想で作り続けることは困難である。
どうしてもどこかで悲しい作品を詠んでしまっている。そんな時「印象吟」がそのもやもやを打ち消して、作句の行き詰まりをリセットしてくれる。

何しろ課題が、絵・音楽・記号など多岐に渡っているし、そのものを詠んではいけないというルールがあれば(なくても自分でそう決めればいい)それまでの句会の課題処理の方法とは違うやり方で句箋に向かうことが出来る。

課題から感じたことを詠むということは、自分自身を読むということでもある。この新鮮な気持ちは、川柳を詠むことの基本姿勢を再確認させてくれる。

「印象吟」は、抜句結果そのものよりも、作句している時間の方に意味があると感じている。
2005年8月

印象吟句会の作句で面白いのは、
「この句、分かってもらえるだろうか?」
と考えるハードルが低いことにある。

つまり、句会であるから、当然選者はある程度のキャリアのある人間が勤めることになる。一般の読者より多くの川柳を見てきている筈だから、それだけ思い切った句をぶつけることが出来る。課題から感じたことを自分自身を通して素直に発露することが出来るのだ。

普段の句会や、柳誌、投稿などのように、より多くの読者を前提とした句作りとは違い、全く自分自身の思いをぶつけることが出来る。
結果としてその作品は意味が不鮮明であったり、独り善がりであったりする場合もあるのだが、作句という行為そのものを純粋に楽しみたい、日頃の作句上のフラストレーションを解消したい場合にはもってこいの環境だと感じている。

ご異論も多いだろうが、私は印象吟を、初めて川柳を作ったときの感情の昂ぶりを確認するためのコンテンツとして利用(利用というと句会の運営をなされている方々に失礼かもしれないが)させて頂いている。
2005年8月

◎「題」の扱い方

句会で選をする場合、当然ながら全ての集句を見ることになるのだが、一読して抜ける句と、没になる(する)句がある。

抜ける句は「課題」を外しても意味が独立しており、活字になったときに誰に読まれようが鑑賞に耐えうる作品である。
没になる(する)句はまず、字余り・字足らず、誤字・脱字。これが結構多い。
締め切り間際まで作句されていて慌ててというものもあるだろうが、勿体無いというしかない。

次に、意味の判らないもの。
名詞やカタカナ語、外来語などでこちらが知らないというのではなく、主張が偏りすぎていて他人に通じない句がある。
箴言的な句もこちらに入る場合がある。
「何故こんな当たり前なことを句箋に書くのだろう」という意味の判らなさである。

そして、題を外すと意味が通じないもの。
前句附のように、課題と見比べながら鑑賞すると意味が浮かび上がってくるもの。この形が増えてきているような気がしている。

現代川柳は「前句附」なのだろうか?
これを広げて、その句会の暗黙の傾向に沿ったもの。
これだと全くの他者には意味が通じない。句会の伝統とは江戸期の前句附的なものを守ることなのだろうか?

世間でいう川柳の認識にこういうものはない。
一般公募されているマスコミ等の川柳には、「テーマ」はあっても「題」はほとんどない。テーマと題は同じじゃないかといわれそうだが、明らかに句会の「題」は違った扱われ方をしていると感じている。
2005年8月

「題」を前句のように扱わないで、一句で独立した作品を作ろうとするとき、「説明句」という問題に向き合うことになる。

推敲時に言葉を削っていくと、どうしても「これで通じるのだろうか」という不安が浮かんで来る。
そこで強調したい部分や伝えたい事柄を説明するような表現を残してしまう。
「○○の○○〜」という形がくどい印象を持ってくる。
これを避けるために一番簡単な方法は、説明の部分を「題」に受け持ってもらうことだ。
句会ではみな同じ「題」に頭を悩ませているのだから、題とセットでより以上の意味を持つ表現を使うことで、毛色の違った句として選者に印象付けることができる。

つまり、着想よりも仕立ての違いを際立たせるのだ。
しかし、これは「現代川柳」なのだろうか?
一句にて独立しない前句附の句を作っていることにはならないのだろうか?
2005年8月

句会川柳を始めた頃は、「題」とは自分の川
柳を詠めるようになるための練習問題だと考えていた。
ところが、いろいろな句会に出るようになると、自分の川柳を詠むなどということより、「抜ける事」が大切になっていった。
その頃の柳誌の雑詠欄への私の投稿作品は、
「題」があって初めて「あ〜」というものがほとんどだった。
貧弱な着想を誤魔化すために「題」に寄り掛かった省略をする。抜けるために選者に合わせる。過去の抜句傾向に合わせる。ノートにある自分の句が「句会で抜けた誰かの句」のような顔をしている。
「ああいう句が作りたい」
「こういう位置で抜けたい」
という欲求に流されるまま句会への出席を続けていた。
抜けたいための多読・多作。
サラリーマン川柳を批判する先輩方の言葉を鵜呑みにして、
「自分のやっている川柳が本当の川柳だ」などと偉そうに考えていた。
それが語戯だと判らないままに。
2005年8月

「題」を読み込むか読み込まないかが作句のキモになっていた事もある。
「あの選者は題を読み込んだ句は抜かない」や
「関西の句会では読み込んだ方が良い」など、
まことしやかな噂を真に受けて投稿していた時期があった。
今思うと、それは単なる傾向であって、自分の着想にそんなに早い段階で枷を嵌める必要など全くないのだ。

名詞(例えば、屋根、灰皿、コンビニなど)で出された「題」を無理に読み込まないで作るよりも、その言葉から受ける印象・刺激による発想をまず大切にするべきだろう。

選者は、読み込んであるかどうかという機械的な取り捨てをするのではない。それでは作業であって「選考」にならない。

当たり前の事なのだが、選者は一句一句読んで表現されている世界・発想・着想を審査しているのだ。
2005年8月

「題」からの距離という概念は、選者をお願いされるようになってからだんだんと考えるようになっていった。

例えば「大きい」という題に「小さい」という意味の句箋が混ざっていることがある。
「子供の服が小さくなった」等の着想である。
形容詞の題は反対語を用いる事によってより意味が強調される場合がある。
しかし、このような作品は往々にして「その強調」がキモになっていて、雑詠として見たときに単なる報告句である場合が多い。

このような作品の場合、一旦別にしておいて、全体を見終えてからもう一度判断を下すようにしている。
そして、句箋に書かれた作品を色紙に置いた場合、どのように映るかをイメージして選考する事にしている。
2005年8月

色紙に句を書いたときにどう映るかをイメージするという事は、
川柳を知らない人、作った事がない人、読んだことがない人にも判るかどうか、川柳句会を知らない人でもリズムを取って読み下せるかどうか、という事である。

選考する側も句会で育っているのだから、どうしても「句会風」の評価点が存在する。
句の姿の中の手慣れた部分を着想よりも上位に評価していいのかどうか、その判断を句会場以外の読者を想定する事で判断していく。
「題」がなければ意味が通じないものなのか、
「題」があることでもう一段深い面白さがあるのかどうか、
「題」から離れてしまって存在しているものかどうか。
そういう点を考慮しながら、句会だからこそ抜ける作品よりも、実社会の中で評価される作品を出来るだけ選考していきたいと思っている。
2005年8月


                           
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