川柳の技術的なことあれこれ VOL 7

◎縦書き横書き

どんな職場でも仕事上の書類はまず横書きである。
特別な仕事でもない限り縦書きという事はまずない。
以前2007年問題に絡めて、定年を迎えた方々が川柳界へ来られる準備、心構え云々を書いたが、この縦書き横書きの違いは大きい。
川柳はまず句箋が縦書き、柳誌の投稿が縦書き。柳誌そのものも縦書きである。
「メール投稿可」という会が増えてきたが、この場合は横書きになる。
さて、一般の郵送での投稿で横書きを受け入れている吟社、柳誌はどのくらいあるだろう。
競吟で句箋にわざわざ横書きする人はいないだろうが、投稿受付の場合にこれからの柳界を思えば「横書き可」ということも考える必要がある。
けして伝統や形式を軽んじるわけではない。
新しく川柳界の門を叩く方々への配慮として一考の価値があると思う。
2005年9月

縦書きと横書きについてだが、ご経験のある方も多いと思うが、ワードやhtmlで書いた文章が、縦書きに編集されて印刷物になったときに、微妙な違和感を感じる事がある。
改行や一字空け、・・や?など横書きの活字の中での印象が、縦書きだと薄くなったりぎこちなくなったりする。
上手い下手にかかわらず、文章は伝えたい事があって書くのだから、出来るだけ思いをその通りに伝えようと、校正や配置・仮名・漢字・ルビなどを駆使する。
当然、読まれた時の目の動きも考えて書く。
言語学として文法上問題があっても、読み手に伝えたい思いが強ければ様々な工夫を凝らすものだ。
この工夫、縦書き・横書きのどちらでも通用する場合と、そうでない場合がある。
特に絵文字などはそうだ。
メールや掲示板上のこれらの記号文字はそれだけでは対して意味を持たないのだが、文脈の中で思考をリードしたり、間を持たせたり、強調したり、作者のアイデンティティーを表現したりする。
縦書きでこれと同等の効果を考えようとすると、やたら説明の多い、くどい文章になってしまう。
その部分を省略し、意味に広がりを持たせるというのであれば、川柳のノウハウにどこか通じるものがあるのかなと思っている。
2005年9月

◎句を作る時間

あちこちの句会で川柳を楽しんでいると、月間に作句する句数は膨大なものになる。
一回の句会で出句する数はだいたい25から30句だから、毎週どこかの句会に行くとすれば100〜120句出句することになる。
一題に3句出すといっても、きっちり3句しか作らないなんてことはないから、着想する数はもっと多くなる。
さて、川柳家は一句作るのにどのくらいの時間を掛けているのだろうか?
ほんどの句会は、開場から出句締め切りまで一時間半ほどある。
つまり、90分で約30句作る事になる。1句約3分だ。
先日取り上げた3分間吟がいかに有効かこれでわかる。
少し前まではどの句会も、宿題と席題に分かれていた。
席題は5句、もしくは通し出句である。
こうすることで句会を宿題と即吟を競う場にしていたわけだ。
そうなると一句にかける時間はもう少し多くなる。
というかむしろ一題にどのくらいの時間を当てるかになる。
席題が3題なら一題30分だ。これだと3分で作った句の推敲もできることになる。
競吟のシステムは長い時間をかけて出来あがってきたものだが、こうして考えると3分という時間が作句の一つの目安といってもいいかもしれない。
2005年9月

◎スランプ

半分泣き言になるのだが、川柳が作れないときが周期的にやってくる。
実は今、最高潮に駄目な時期である。
どうでもいい用事が増えて、時間がない。
昔はもっと時間があったような気がするのだが・・。
やはり年なのだろう。用事と用事の間にワンクッションがないと、気持ちが萎えてしまう。
よく、定年を迎えられた柳友の方々が、
「定年になったらもっと川柳が出来ると思っていたけれど・・・」
とお話になることがあるが、実際時間のあるなしと作句の量には相関関係はないように思う。
時間があっても全く駄目なときもあるし、時間が無いのに辛いほど浮んでくるときもある。
創作とは、メンタルな部分に左右されるものなのだなとあらためて感じている。
2005年9月

◎それでも指を折る

川柳を始めて5、6年経つと、たいていの人は指を折って数えなくても「五・七・五」が身体に沁みついてくるので、中八や下六の句を作らなくなる。
しかし、経験から言うと、指はいつまでも折ったほうが良い。
というのは、選者を任された時に、定型の句をちゃんと抜けるようにするためである。
昔は十年やらなければ選者には任命されなかったが、最近では4、5年でも選者を任される方が増えてきている。
人がいないという事もあるのだが、いくらベテランでも同じ選者ばかりでは、抜句の傾向が出てしまい、それに合わせた作品投稿が増えてしまうため、できるだけバラエティーに富んだ選者を用意する必要があるのだ。
この時に普段から指を折る癖をつけておくと、句跨ぎや内在律の作品に対しても素早く対応する事ができる。
身体に染み込んだリズムだけで他人の作品を読んでいくと、つい自分の作句リズムで読む事になってしまい、作風の違う作品に対しての評価を誤ってしまう場合が出てくる。
句会で川柳を楽しむ場合は、何年経験を積もうと、指を折ることを忘れてはいけないと思う。
2005年9月

◎目を通す句の数

川柳は十七音字しかないから、あちこちの句会、柳誌とお付き合いをしていると、毎月膨大な数の句が手元に寄せられる事になる。
果たしてその全部に目を通す事ができているだろうか?
単純に計算するが、各句会の抜句が十秀、五客、三才で、出題が6としよう、これだけで18×6=108句。
柳誌の雑詠欄、一人5句で、50人掲載として250句。
柳誌には投稿コーナーもあるから、これが2つとして
(柳誌の場合20秀、五客、三才程度抜句する場合が多いので)28×2=56句。
句会が毎週あり、柳誌を3つばかり購読しているとして、108×4+250×3+56×3=1350句にもなる。
これに12ヶ月掛けてみると16200句。
どうだろう、本当にこれだけの句を読んでいるだろうか?
以前書いた事があるが、私は最低限、五客、三才句は声を出して読むようにしている。
(声を出してといってもそんなに大きな声を出す事はないので「正確には口を動かして」といってもいいのだが)
あとはパラパラと黙読する事にしている。
それでも全部に目を通す事はできない。
先の数字は少なめに見積もったもので、実際にはもっと沢山の句が活字となって送られてくるのである。
2005年9月

声に出して句を読むこと

送られてきた句は「出来る限り口を動かして読む」
実はこれ、結構大事な行為なのである。
句会と新聞や雑誌の投稿川柳との大きな違いは、音になるかならないか、という点にある。
例えば、サラリーマン川柳はテレビやラジオで取り上げられない限り、音で聞くことが出来ない。
そしてその音はプロの人間が読み上げる音なのだ。
普段から句を声に出して読む癖をつけていても、なかなかプロのアナウンサーのように読むことは出来ない。
だからこそ余計に声に出して読む、もしくは口を動かして読むことが、句会川柳人には必要だと感じている。
当然理想は声を出す事だが、句会場で選考中にぶつぶつ言うわけにも行かないので、私は最低限口パクで対応している。
端から見ていると気持ち悪いかもしれないが、自分の勝手なリズムで黙読してしまう事で、せっかくの作品に対して間違った解釈や評価をしてしまわないとも限らない。
句箋へルビを振ったり、息継ぎや伸ばすタイミングを書きこんだり、ちゃんと伝わる披講を心がけることも川柳の一部であると考えている。
2005年9月

◎文芸と知的ゲーム

先日、句会後のお茶の席で難解句の話が出た。
例えば「〜過ぎ去ったのは鳥だろう」という句があって、その「鳥」をどう理解するかによって、難解な句の意味が解けてくる。
つまり「鳥」を「青い鳥」とすれば、というわけだ。
「青い鳥に気が付かなかった」という作者の心象とするならば、理解できる。
構造上は「鳥」が「青い鳥」であるための暗喩が上五にあればいいことになる。
もしくは、「鳥」を「青い鳥」であると認識できることを読者に期待すればいい。
「おいしい川柳」とは、このように読み手が比喩・暗喩を解いたときに、眼前にイメージが広がる作品のことでもある。

さて、「構造上暗喩が」「認識できることを読者に期待」と書いたが、
いわゆる難解句とされる作品を作る時にそこまで「読者」を意識しているだろうか?
川柳は深く考えれば考えるほど、文芸と知的ゲームとの境が危うくなってくる。
この辺のことを少し考えてみたい。
2005年9月

◎比喩・暗喩の難しさ

十七音字しかない川柳の中で、比喩・暗喩を使うことは難しい。
何故なら、長文では読み手に理解してもらえるように、比喩の方向付けをすることも出来るが、一行詩では、そこまで作りこむことが出来ないし、そもそも作りこむことで意味の確定をしては川柳でなくなってしまう。
それにある程度意味が確定されている比喩表現は、過去に作られ過ぎていて、手垢の付いた新鮮味のないものになっている。
そこからの脱却を目指し、集中し研鑚を積み重ねる集団があるとしよう。
その中では「おいしい川柳」も生み出されるだろうが、同時にその集団内だからこそ理解の出来る比喩表現の方向性に埋没してしまう恐れもある。
つまり
「AからBを連想させることによってCを理解させる、Aを内包した作品」から、
「Aと掛けてBと解く。その心はC」という謎掛けに近づいてしまう。

一般に伝統と呼ばれている川柳も、
「AはBだが、Cという見方もある」という形から、
「Aと掛けてBと解く。その心はC」へ転げ落ちていくことはた易い。

穿ちとトンチ。
似ているようだが、川柳はトンチだけではすぐに行き詰まってしまう。
2005年9月

◎句を読むこと

新聞や雑誌で川柳を読まれる方にはピンと来ない話しかもしれないが、
句会や柳誌で川柳を楽しんでいると発表誌に載る句を読むときに、句よりも先に作者の名前を追いかけてしまう事がある。
知人、友人、尊敬する人、嫌いな人。
句よりも名前を眺めてしまうのだ。

川柳は「句」である。
十七音字で紡がれた世界であり、思いである。
句を読む前に作者の名前を見てしまうと、句に表現されているものを、先入観を持って見てしまう事になる。
投句を考えてもらえればよく判るが、この選者だったらこういう作り方がいいだの、この会はこういう傾向だからこんな作り方じゃ抜けないとか、初心のころは、課題から受けた自分の思いを綴る前に余計な事を考えてしまう。
また、こういった見方を推敲時に持ってしまうと、せっかくの句が自分のものでは無くなってしまう。
だから私は、句会の課題を前もって教えていただいた時に、選者名はメモしないことにしている。

川柳は「句」だ。
全ての句の総体が自分自身なのだ。
自分の句を読んでもらいたいのなら、先ず自分が名前より句を読むという事を大事にするべきだと思う。
200510

◎怖いこと

「ふ・る・さ・と」とワープロで打つと「故郷」と出る。

「こ・きょ・う」と打っても「故郷」と出る。

「ふるさと」は四音。「こきょう」は三音。

普段の生活の中では、どちらがどうというわけではないが、句を作るときにちょっと悩んだりすることがたまにある。
また、選をする場合、原稿が送られてきて何日か時間がある場合はともかく、句会の短い時間で見るときに、読み方による音字数の違いを取り違えて、落としてはいないか、と不安に駆られ慌てて読み返す場合があったりする。
拙句を例に挙げてみるが

自由席故郷行きの馬車である  帆波

鰯雲故郷は風の啼くところ   帆波

このような句を音字数の違いから来る違和感だけで、句意を読まないで処理してしまっているのではないかという恐れである。
そういう印象を(選者に)持たれないように、別の言葉を探して句をデッサンし直すとしたら、それも怖いと思う。
いずれにせよ選は怖い。そして抜句第一になりがちな心も怖い。
20064

◎音字数

このところ柳誌や句会でも音字数の事が良く話題になっている。
最近このことについては、句の完成へ向けた推敲時における音字数の処理としての問題ではなく、句として表現されている事柄の評価をしないまま、句体として正常か否か、という視点ばかり取り上げられているように感じる。
分かりやすく言えば「中八は川柳ではない」「下六は川柳ではない」のように断ぜられているように見えるのだ。
その短詩で表現されていることが「川柳」であるかどうかというのは、作り手が「表現したい思い」「伝えたい思い」に、その判断の基準があるべきで、まず句体ありきではないと思う。

発句動機があって、その事柄を一行、数行にまとめ、そこから省略や表現技法を駆使し、より効果的に読み手に思いを伝えようとするための句体ではないのだろうか。
句体が第一であるのならば、「らしきもの」「ぽいもの」を作っていればいいことになってしまう気がする。
20064

◎小数点

選考における既視感について何度か書いているが、これについて私が持っている概念を少し説明しておきたい。
先日の川マガ句会の課題を例にすると、「枕」という課題から着想されるものは
「膝枕」「腕枕」「抱き枕」「枕そのもの」「枕木」や「話の枕」・・など幾つか考えられる。
よく「初めに浮かんだ着想は捨てろ」といわれるが、かといって「膝枕」を中心とした着想を全て否定してよいのだろうか。
過去に「腕枕」の句を読んだことがあるから「腕枕」を題材にしてはいけないのだろうか。

数字を考えて欲しい。1、2、3、4、5・・
これは整数であるが、それぞれの整数が一つの着想だとすれば、作句とは1から5までは捨てて6以降の着想を見つけようということになのだろうか。
数でいえば、これは無限に存在するのだが、ある課題に対する着想はそうは行かない。

この数を整数だけではなく有理数として考えるとどうなるだろう。

1と2の間に無限の数が存在している。

1という着想と2という着想の間に1.5という着想も存在しているのだ。

「枕」という題に対する「膝枕」という着想から広がる別の着想。
「膝枕」という着想の範疇なのだが、過去にない新しい着想が存在するのである。
これを見つけ出し、表現するのが、課題吟の醍醐味であり難しさでもある。
せっかくの着想に対して整数的判断を下してしまうと、類想を避け、相対的な抜句確率を上げることができるかもしれないが、新しい発見のチャンスを逃してしまうことにもなりかねない。
抜句より作句・着想であるということを忘れないようにしておくべきだと考えている。
2006
年9月

◎れる・られる てる・ている

川柳でも「ら抜き言葉」「い抜き言葉」が問題になる。
日本語を使っているのだから、文法に気を配るのは当然であるが、口語体で作ることも可能な川柳において、絶対に使ってはいけないものなのだろうか。
と、ちょっと過激なことを考えてみた。

「られる」は可能を表す。
人類の言語において「可能表現」というものは比較的新しいものらしい。
ここからは私の勝手な考えなのだが。
「可能表現」の内容は、「受動的」と「能動的」とに分かれる。

「この魚は食べられます」は
「私やあなたを含む人間が食べることができる魚です」
という受動的可能性と
「私はこの魚を食べることができます」
という能動的可能性のどちらも伝えることができる。

ドリアンという結構な匂いを持つ果物をご存知だと思うが、
「私はドリアンを食べられます」
という文章をそのまま言葉として発する場合と
「私はドリアンを食べれます」
という「ら抜き言葉で」発する場合の、発言者の感情の強度を考えてみた。
(あくまでも書き言葉ではなく、話し言葉としてである)
日常会話、それも比較的近しい人との会話の中で
「出来る、出来る!俺、出来るよ、それ!」という感情を、より表に出したいときに「ら抜き」が発生している可能性が考えられる。
テレビタレントやニュースキャスターがこのような表現をする場合、フランクな状態で自己を主張する、もしくは自己のキャラクターを強調するような場合に起こっているのではないだろうか。
現状では「ら抜き」は文法上間違いとされているが、もしかすると将来「能動的可能性」を伝える表現として認識されるかもしれない。
次に「い抜き言葉」であるが、いろいろと調べてみると、こちらは話し言葉としては「ら抜き言葉」より違和感無く浸透しているようだが、書き言葉としての違和感は「ら抜き表現」より強い。
「だったのだ」を「だったんだ」と表記する場合に近い。これは「い」を抜いているのではなく「発声」に関係していると解釈をされている場合がある。
「すみません」のマ行音の連続が「すいません」という発声しやすいほうへ流れている現象に似ている。
これも「ら抜き」と同じように、会話をしている者同士の感情、環境、(早く伝えたい、強調したいなど)に関係してくる。また「ら抜き」「い抜き」共に方言としての存在も確認されている。

つまり、日本語で物事を伝えようとする文章内において「ら抜き言葉」「い抜き言葉」の存在は、文法上の可否以前に違和感を発生させているものであり、あくまでも「話し言葉」の中で慣用語として使用されているのである。従って、「」で括られた会話文として、必要上文章内に存在することはできても、それ以外は不可ということになる。

ここまで考えて「川柳」ではどうかということを考えてみたい。
手元に昭和二年の「新川柳一万句集 川上三太郎編」があるのだが、その中を少し開いてみると次のような作品がある。

赤ん坊そっと覗けば動いてる  珍茶棒
坊っちゃんと小僧しゃがんで遊んでる  珍茶棒
店番の子供ちょこんと座ってる  鬼面子
綻びを縫ってる傍で酔ひ潰れ  みはる

これらはみな「い抜き」である。

それならば飛車を取るぜと吸ひつける  三太郎
こちらは話し言葉がそのまま組み込まれている。

おとなしく居て乳母車一つとこ  半里宇
この下五もパソコンでは入力ミスと出てしまう口語表現である。
(アメリカの会社の製品に日本語の間違いを指摘されているのも、面白いといえば面白い。)

はたしてこれらの表現は音字数を整えんがためになされたものなのか、話し言葉として表現の中に組み込まれたものなのか、今となっては確認する方法が無いが「音としてそう読まれることを想定し、選者もそのように披講した」と、実作をしている者としては思いたい。
事実、私の句にも「い抜き表現」「のだ・んだ表現」は存在する。
もともとこういった表現に対して、そう気を配っていた方ではないのだが、推敲の段階で「音」としての表現を模索した結果でもある。
実作としていうと、初めの着想の段階から「い抜き」「とこ」「のだ・んだ」という形にはならない。
「嘆き」「驚き」「悲しみ」「切なさ」「強調」や「主張」もあるが、繰り返し声に出して読み、何か足りないときに、こういった表現が自分の感情と合致する場合がある。
一字空け表記や、「」もそうである。
音の川柳に必要が無いと言われればその通りなのだが、そう読んでもらいたいという欲求があることも事実である。
逆に言えば、そんな表記をしなくても「そう読むことが出来る読者でいたい」し「そう読んでもらえる句を作る」ことが本当なのだろう。
また「川柳」が難しくなってしまった。
2006年9月

◎プラクティス

「ら抜き言葉」を初めとする「書き言葉の文法違反表現」について思うところを書いたが、これは創作する側の視点であって、指導する側の立場とは異なる。
指導する側は
「文法違反表現はいけません」
と説明しなければならない。

なぜならば、そういった作品は競吟選考に於いて好結果を生まないからである。与えられた課題に対する着想を句に仕上げ、選出されたものは参加者全員の前で披講される。
その参加者は、同一空間内において、同じ課題に対して着想を競い合っているから、選出作品と非選出作品との間に、多くが納得できるような基準が必要になってくる。分かりやすく言うと、相対的比較と減点法による取り捨てが必要になる。従って文法的に不自然な作品は高評価を得られないのである。
こういった句会における作品とは別に、多くの柳誌に掲載されている「雑詠」や「自選句」という作品群がある。
これらは与えられた課題に対して作句するのではなく、創作者の自由な視点・着想によって世の中の様々な事柄を表現させるものである。その中には、時として文法的に不自然な作品が存在することもあるし、複雑な比喩、心象表現から一読して理解できないものもある。
このような創作作品群と競吟の中で評価される作品を、同列に並べ、「こういう表現はダメだと教えられたのに雑詠ではいいのかしら」や「誰にでも意味が通じなければ川柳とは言えないんじゃないの」という捕らえ方をしてしまうと、川柳は文芸としての試行錯誤が出来なくなってしまう。
詩としての側面が弱くなってしまう。
また、競吟の中で表現に対してのチャレンジを行うのであれば、抜句結果に拘るべきではない。
「これが分からない選者はダメだ」という前に競吟のシステムを今一度良く考えてみることである。
同一空間内において、同じ課題に対して着想を競い合っている参加者の集まりにおいて、自身の心象を突き詰めた表現を投稿し、その上で抜句率を求めるということは矛盾ではないだろうか。
課題吟が下で、雑詠が上だ、などということを言っているのではない。課題吟における知的作業と、雑詠における感情活動は、どちらも創作に必要な部分である。その両方の作業が融合することによって作者の意思が作品の内部に生まれ、文芸として育っていくのではないか。習ったり、真似たりという段階は、プラクティスでありクリエイトではない。だからといってプラクティスの価値が否定されるものでもない。
基礎の部分がない状態では、変化しているのかどうかすら判然としないものなのである。
2006年9月

◎課題の難しさ

先日のかつしかの課題に「飽きる」というものがあった。よく「走る」「遊ぶ」などの課題において「走らない」「遊ばない」など、課題の否定形で作られた句をどのように扱うかという質問を受ける事があるが、「能動的に行う行為」の否定形と「受動的に行う行為」の否定形を同じに扱うことは出来ないのではと考えている。
「飽きる」というのはそもそも「能動的に行われる感情の変化」ではなく「時間や経験と共に受動的に発生する感情の変化」である。
どちらかというと「飽きる」という感情そのものが否定的な感情なので、この場合の「飽きない」という表現は「走る」「走らない」とはニュアンスが違ってくる。私はこのような場合は「飽きない」という表現もOKだと考えるが、そもそも出題の時点で「もう沢山」のような課題ならば、否定形がどうという事まで考えなくて済むと思う。
川マガ句会で「遊び」という課題を出したが、これも「遊ぶ」という能動的行為の上での範囲を広げたかったからである。改めて課題を出す事の難しさを感じた。
200610



                           
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