川柳の技術的なことあれこれ VOL 8

◎笑いについて

笑いについて、先日の川マガ句会で参考に配ったプリントの一部を見ながら考えてみたい。

「笑い」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia より。 傍線帆波


笑いを定義するのは案外難しい。
ごく一般的には陽性の感情に伴って表情が特有の緊張をすること(笑顔)、同時に特有の発声(笑い声)を伴うこと、ぐらいであろう。
普通は何か自分以外の対象があって、それから受ける印象に基づいて、それが好意的であれば表情に笑いがでることがあり、特に刺激的な場合には発声が伴う。さらに程度がひどくなると全身に引きつけるような動作が伴い、涙なども出る。
しかし、人間はこのような表現をかなり意図的に使い分けることができ、微細な感情を表現するので、なかなかややこしい。たとえば表情を変えずに笑い声だけをあげた場合、冷やかしや威嚇などの表現となり得る。
笑いは構図(シェーマ)のずれであると考えられている。
例えばコントなどで滑って転ぶ政治家が演じられて笑いが起きたとすると、
「政治家は真面目で威厳ある人で、滑って転ぶことなどありえない」
という構図を受け手が持っていて、それがずらされたことによって笑いが起きたことになる。しかし受け手の常識が
「政治家に威厳があるとは限らない」
「滑って転ぶことは意外な出来事ではない」
「政治家が転ぶというネタは目新しいものではない」
などを含むものだった場合、構図のずれが発生しないため笑いは起きない。
同じ出来事に対して笑いが起きるかどうかは受け手の持つ構図に依存すると言える。
また、笑いは立場によって意味を変える性質がある。
転ぶ政治家を見ている人にとってはおかしな出来事であっても、政治家自身にとっては不名誉で笑えない出来事になる。

古代
すでに古代ギリシアのプラトンには笑いについての考察がある。
アリストテレスは『詩学』の中で喜劇も考察対象にすると書いたが、これは実現しなかったと見られている。

古代ギリシャでは悲劇と喜劇が一作づつ上演されるのが常であった。

司馬遷は史記列伝に滑稽列伝の一章を設けている。

日本の文献で最も古い笑いの記録は岩戸隠れに於いてアメノウズメノミコトが神懸
かったり踊っているのを見た神々が笑ったというくだりであろう。
これを以てアメノウズメを日本最初のコメディアンであるとする見方もある。

18
世紀
ドイツの哲学者イマヌエル・カントは「笑いは緊張の緩和から来る。」という有名な言葉を残した。

19
世紀
フランスの詩人シャルル・ボードレールは、有意義的滑稽(人間の振る舞いによって引きおこされるふつうの笑い)と、絶対的滑稽(グロテスクによって引きおこされる深遠で原始的な笑い)があるとした。
スコットランドの哲学者アレクサンダー・ベインは、笑いとは、私たちを安心させる些細なこと、卑俗なことに接触による緊張した状態から逃れた状態である。笑わせてくれるまじめさ、荘厳さの形であるとした。
イギリスの社会学者ハーバート・スペンサーは、強い感情、精神や肉体という、笑いの一般的な理由として、他の筋肉運動と異なり、特に目的もない筋肉運動から笑いが構成されるということに注目するべきだと主張した。

20
世紀
オーストリアの心理学者ジークムント・フロイトは「ユーモアは自我の不可侵性の貫徹から来る。」と説いた。
フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは自身の研究『笑い』において、ボードヴィル演劇を素材として笑いの原因を考察した。ここでは「笑いは、生命ある人間に機械的なこわばりが生じた結果である。」としている。
日本でも、落語家の桂枝雀が、笑いは緊張の緩和によって起こるという
「緊緩理論」を立てている。
笑うのは動物の中でもヒトだけであると考えられている。
しかし、類人猿の、特に子供は笑いであるかもしれない様子がみられる。



動物に笑いが起きず人間にだけ起こるという点について、記憶を扱う「チャンク」という仕組みから考えてみる。
意味の無い数列、例えば「4872693」を記憶する場合、「世、花に向くさ」といった語呂合わせや、「487」「2693」と電話番号のように分割して覚えたりする。
つまり記憶しようとする対象とは別の意味を持つ、過去の経験や記憶に基づく単位に置き換えて記憶するのだ。
動物にはこの「チャンク」という能力が無いか、人より大きく劣っているので、知能の高いチンパンジーなどでさえ
4」「8」「7」「2」「6」「9」「3
という個々の要素の区別は付いても、全体を置き換えて記憶しやすい形に変換することが出来ない。
従って「734788」のように同じ数字が混ざっていると
3」「4」「7」「8」の個別の違いしか認識できない。
「波よ七母」のような形で覚えることが出来ないのだ。
この記憶の置き換えは、日常的な事柄が長期記憶になる際にも働いている。
これが「人々の常識」を作り上げていく。
社会生活の中で共有制が高くなった「常識」がずらされることで「笑い」が起こるのであるから、記憶の置き換えが出来ない動物に笑いが起きないのも無理はない。
出典の「類人猿の子供は笑いであるかもしれない様子がみられる」のは「群れ内のルールが記憶として確立」されるまでの過程において起こる精神活動ではないだろうか。

緊張の緩和では、「共有されている常識」がずれる時
「えっ?」「何?」「どうしてそんなことを?」
という緊張が生まれ、これを緩和させることで「笑い」が起こる。

この「緩和」の方法が歴史を重ねるにつれて様々に変化しているのではないだろうか。

「あ~、そうか、そうか」という安心を与える「緩和」や、
より強い緊張を与えそこからの逃避によって受け手が自発的に起こす「緩和」、
また振幅を変化させた緩和と緊張の繰り返しからの逃避と、その空間を共有しているという意識を持つことによるに安堵。などが考えられる。
私は最近、お笑いの「芸」が解らない事が良くあるのだが(私だけではなく他にも同じことを仰る方が多いが)「構図のずれ」からこのことについて考えてみる。
つまり「緊張と緩和を用いる笑いの手法」そのものが、お笑いファンの間で「共有されている常識」となっており、そこからの「ずれ」として芸人が「笑い」を生産しているのでは、というものだ。
こうなると「笑えるか笑えないか」「解るか解らないか」は、どれだけその芸人を見ているかの蓄積の差になってくる。
これはどうも「川柳の解る解らない」につながっているような気がする。
2006
11

川柳と笑いが起こる状況について考えてみたが、うまくまとまらない。
現状の思いのまま、書いてみることにする。

公募川柳を見ていると、川柳に笑いがあるかないかではなく「構図のずれ」「緊張の緩和」「共有意識による安堵」を用いた作品が多いことに気づく。
しかし川柳専門誌や柳誌の雑詠欄には「緊張からの逃避」を狙ったような作品が見受けられる。
「難解句」などと呼ばれているが、それをどう理解するかについて聞く意見のほとんどが「その句から感じたことを素直に受け入れる」というものである。
これはこれで正しいと私は思っているが、そのときに起こる「笑い」を「笑いのある川柳」という括りの中での「笑い」と同列に扱えるのかどうかとなると疑問が沸く。
つまり、公募川柳も川柳界において発表される川柳も「構図のずれ」「緊張の緩和」「共有意識による安堵」「緊張からの逃避」という「笑い」を発生させる要素を「笑いを発生させる目的」のみに用いているのではなく、読み手の感情に変化を起こす表現手法として使っているのである。
結果として読み手に起こる笑いは、作者が狙って放ったボールだとは限らないのだ。
「笑いのある川柳」がとても難しいものであるということに、集句と選考をやってみて初めて気が付いたのだ。
「川柳に笑いが少ない」という声に応えるために、川マガは「笑いのある川柳」の募集を始めたのだろうが、実は「笑いが少ない」のではなく世間が認識している「川柳というものから醸し出される笑い」と「笑いの質」が違っていただけなのだ。
考えてみれば「現代川柳」が第三者以外の視点を持ち始めたときから当然起こる変化だったのだ。
先に「笑えるか笑えないか」「解るか解らないか」は、どれだけその芸人を見ているかの蓄積の差になってくる。と書いたが、柳誌・句会川柳に置き換えれば、膨大な課題吟・雑詠の蓄積の中で、「構図のずれ」「緊張の緩和」だけでは、その世界では通用しなくなっていったのである。
話はずれてしまうが定型・否定形の議論もここに端を発するのではないか。
五・七・五や七・五・五から句跨ぎ、
六・七・五や七・七・五、の作品が多くなりつつあるのも「音節の区切りのずれ」によって「構図のずれ」「緊張の緩和」を求めているのではないか。もしかしたら「八・一拍・八」という一行詩が句箋に現れる事さえあるかもしれない。
十七音字という短い中で、読み手の感情に訴え、動かそうとすれば、それは喜怒哀楽を揺さぶる手法の先鋭化につながっていく。
「一読明快で笑える」という川柳は「川柳界」の中で先鋭化した手法からは生まれ難くなっているのかも知れないが、その世界の中では魅力的な表現手法でもある。
サラリーマン川柳を「あんなもの」という川柳家は多い。
しかしその「あんなもの」を作れる川柳家は少ない。
作者自身の視点のウエイトが大きいと、それを認識できる場所でのみ評価され、そこから離れた時に共有感の無い作品になる可能性が高い。
「一読明快」は月に何十、何百も作句する人から見ての視線ではない。逆に言えば、月に何十、何百と作句していても、世の中の視線を無視しては文芸作品としては成り立たないともいえる。
「日常茶飯」から句を見つけ出す事を今一度認識する必要があると思う。
「構図のずれ」は結果であって目的ではない。
五・七・五で日常茶飯を詠むという基本を、改めて考えさせられている。
200611

◎上五

最近気が付いたことなのだが・・
川柳句会や柳誌ではなくて、新聞や雑誌、いわゆる公募川柳の作品には「上五」の字余りがほとんどない。
公募川柳作品について「中八」のことをよく言われるが、句会川柳の「上五は多少字あまりでもいい」や「カタカナ語など音字数の多い言葉は、上に持ってくるとバランスが取れる」などについて、疑問を言う人は少ない。
「五・八・五」だから「中八」なのでいただけないと言うのなら、「七・七・五」や「九・七・五」という形も拙いのではないだろうか。ふと、そんなことを思った。
私自身、そのような作品を数多く作っているだけに、意味で伝える川柳性と、形で伝わる川柳性について、今一度考えてみたいと思う。
20074

◎昔の句

いつもお世話になっている松戸川柳会さんは、五年に一度合同句集を発行される。今年はその発行年である。私も何句か、出させていただけるので、新しく作ろうかなと思ったのだけれど、今回は昔句会で選ばれた作品の中から選んでみようと思った。
そこで、昔の句報やらノート、フロッピーなど見ているのだが、どうも、昔の句のほうが「生き生きしていて新鮮」なのである。
なんだか、年々「詰まらない川柳」しか作れなくなっているみたいだ。
川柳は思いがなくてはいけないけれど、思いが強すぎてもいけない。なんだか、川柳の要素とか川柳のコツなんていうものは、どれもが、なくてはいけないけれど、ありすぎても駄目になるのだなと思う。
2006年11月

◎課題からの距離と雑詠

ここ数回、川柳マガジンクラブ東京句会で「課題との距離」について考えている。よく、「雑詠は苦手だ。題詠の方が作り易い」や、その逆のお話を聞くことがある。しかし本来、作句に関してそういう感想は、あまり起こりえないはずなのである。
課題吟は当然「課題」がある。雑詠も発句動機という「テーマ」が存在するのである。したがって「雑詠」が苦手で「課題吟」が得意、という事は、「課題があって初めて判る作品を作るのが得意」という事になる。つまり「課題とあわせて読んでもらう事で理解が進む作品」という事だ。
このスタイルだと、当然「テーマ」が表に出ていない「雑詠」を作るのは難しいということになる。
句の中には、表現は色々あるが「川柳味」「手柄」「伝えたい事」が存在する。それは「題詠」も「雑詠」も同じ事なのである。
「課題」が無くても伝わる、一句として独立している課題吟。「テーマ」が無くても伝わる、一句として独立している雑詠。どちらも、一句として伝えようとしている事柄は「動機」である。「課題」を土台に生まれる作者のインスピレーションであり、外界からの刺激、生活や人生の中から湧き出す想いから生み出されるインスピレーションである。課題からの距離を考えるという事は、即ち、自分自身の「動機」がいかに読者に伝わるかという作業である。
この概念を判りやすくするためにどうすればいいか、どういった「課題吟」を考えればいいか。「印象吟」という手法もあるのだが、下手をすると「連想の競い合い」になってしまう恐れがある。
いずれにせよ、大前提は「楽しんで作る」という事なのだが、こういうこと考え出すときりがなくなってしまう。
2007年8月

◎藪の中

芥川龍之介の「藪の中」
「今昔物語」の中の一つの話を元に作られている小説であるが、これを映画化したのが黒沢明の「羅生門」である。
登場人物の証言が食い違い、殺人事件の真相がまるで判らなくなるという作品だが、先日報道された、横浜の傷害事件も不思議な状況になっている。

① 横浜市内の路上で定時制高校の男子生徒(16)を平手打ちし、けがを負わせたとして、神奈川県警旭署は5日までに、傷害の現行犯で同県警大和署巡査長小磯慶洋容疑者(33)を逮捕した。「大変申し訳ないことをした」と容疑を認めているという。
 調べによると、小磯容疑者は4日午後1050分ごろ、同市旭区の相模鉄道鶴ケ峰駅改札前の路上で、男子生徒と口論の末、顔面を平手で殴るなどし顔面打撲を負わせた。
 高校生が電車内で回転式拳銃の形をしたライター(全長約36センチ)を乗客に向けて遊んでいたため、降車後に小磯容疑者が注意しようと呼び止めたところ口論になったという。同容疑者は同僚と酒を飲んだ後、1人で帰宅する途中だった。 

 9590分配信 時事通信

これが第一報。
この報道を受けて、巡査長を擁護する意見が県警に沢山送られたため、次のようなことになる。

② 電車マナーの悪い男子高校生(16)を殴ったとして現行犯逮捕された神奈川県警大和署の巡査長(33)(釈放)を擁護する意見が、県内外から県警に約1000件寄せられ、県警は6日、事件についての説明が足りなかったと異例の追加の記者会見を行った。
 県警は「寄せられた意見は、『高校生が言うことを聞かないから殴った』という誤解に基づいている」と困惑している。
 意見のほとんどは「殴ったのは悪いが逮捕する必要はない」「マナーの悪い若者を注意できなくなる」「厳しい処分をしないで」などと巡査長を擁護する内容。数件だけ「暴力は絶対にいけない」と非難する意見があった。
 再会見は、巡査長が逮捕された翌日の5日に続くもので、西村昇監察官室長が行った。西村室長は「高校生は駅員らに注意を受けて素直に従っていた。巡査長はいきなり高校生の髪の毛をつかんで殴った」と説明。高校生の母親からも「事実関係が間違って伝えられている」と苦情が寄せられているとした。
 県警によると、高校生は4日夜、横浜市旭区の相鉄線二俣川駅で、普通電車の中からホームに向けて拳銃型のライターを撃つまねをした。車掌らが注意し、高校生は「分かりました」と従い、ライターをカバンにしまった。隣の車両からその様子を見ていた巡査長は、高校生が友人と談笑しているのを「反省していない」と思い込み、次の駅で降りた高校生を呼び止め、髪の毛とカバンをいきなりつかみ、「カバンの中のものを出せ」と顔を殴った。この間、高校生は反論しないで黙っていた。
 県警は「巡査長の行為は警察官として許されない行為。注意したというより、因縁をつけて殴った状況で、巡査長の行動を正当化する見方に戸惑いを感じる」としている。

2007962333 読売新聞)


全長約36センチの拳銃型ライターとはどんなものかと調べてみたが、該当するものはこういうもののようだ。
金融関係に勤める知り合いは
「もし、こういうものを来店者が持ち込み、構えたとしたら、その時点でしかるべき体制に入ることになる」と言う。
最初の発表は、このライターを「乗客に向け」とあり、そして「注意しようと呼び止めたところ口論になった」となっている。そのため、巡査長が逮捕されたという事実との間に違和感を抱いてしまう。
つまり、この行為に対して注意をすることは、警察官として当然の行為の延長線上にあるのではないか、と多くの読者が認識する可能性が高い。

追加の記者会見の文章では
「寄せられた意見は、高校生が言うことを聞かないから殴ったという誤解に基づいている」としている。そして、当時の状況として「注意」をしたのは「車掌ら」であり、高校生は「分かりましたと従った」とある。それを隣の車両から見ていた巡査長は「反省していないと思い込み」「いきなり殴った」となっている。最初は「平手打ち」だったのが「殴った」という表現に変わっている。そして「注意したというより、因縁をつけて殴った状況で、巡査長の行動を正当化する見方に戸惑いを感じる」と結んでいる。
二つの記事で共通するのは、「高校生が拳銃型のライターで撃つ真似をしていた事」と「たまたま乗り合わせていた巡査長に暴行を受けた」ことである。
その二つを繋ぎ合わせる状況の説明が、①では「撃つ真似をしていたため暴行を受けた」というニュアンスで書かれており、②では「撃つ真似をしていたことを注意された高校生を暴行した」ということになる。
本来ニュースは速報性・ニュース性のあるものでなければ、ある程度裏を取って発表されるものである。この事件、速報性があるとは思えない。
ただし①のニュアンスでは「ニュース性」が発生する。

つまり「拳銃型のライターで撃つ真似をしていた」という部分の非日常性がそれだ。
では②の場合はどうだろう。
「巡査長が暴行した」という点に「ニュース性」が存在するが、これは「警官の不祥事」という非日常性になる。
警察官には申しわけないが、非日常性を言うならば①の方がインパクトは大きい。
これで見えてくるものは、①の発表の時点で、②の持つニュース性をスポイルしたいという意識が何処かで働いていたのではないかということである。
つまり「警察官の不祥事」というカラーを薄めたいという意識である。

ところが、全長約36センチの回転式拳銃の形をしたライターというものの存在が、ニュースのインパクトとなり、「撃つ真似をしていたため暴行を受けた」というニュアンスに「何らかの阻止を受けても仕方がないのではないか?」という疑問を抱かせる事となった。「殴ったのは悪いが逮捕する必要はない」や「マナーの悪い若者を注意できなくなる」という意見はその疑問から発生してくる。
しかし、①が正確な事実であるという可能性も無いとはいえない。
というのは、報道機関が警察発表を加工せず、裏も取らずに発表するものだろうかという点である。少なくとも駅員はその状況を説明できる位置にいるわけだから。
そうなると、この話はとても複雑になってくる。
①を否定しなければならない事情が、報道された後に発生したことになるからだ。
巡査長は釈放されているようだし、被害者側の苦情を受けての監察官室長の会見であるから、これ以上の会見・発表はおそらくないだろう。

つまり真実は「藪の中」というわけだ・・・

いずれにせよ、不特定多数の人間のいる場所で、素人には判別不可能な銃器的なものを公開することは、いらぬ誤解を生む行為であると認識するべきであろう。
2007年9月

◎省略と暗喩

先に取り上げた横浜の傷害事件であるが、単にニュースとして取り上げたのではない。
実はこのニュース、省略と比喩について参考になる部分が多いのである。
①と②、どちらが真実かということはちょっと置いておいて、あくまでも②が真実という前提で①の表現について考えて見たい。

②  

<>


 県警によると、高校生は4日夜、横浜市旭区の相鉄線二俣川駅で、普通電車の中からホームに向けて拳銃型のライターを撃つまねをした。
車掌らが注意し、高校生は「分かりました」と従い、ライターをカバンにしまった。
隣の車両からその様子を見ていた巡査長は、高校生が友人と談笑しているのを「反省していない」と思い込み、
次の駅で降りた高校生を呼び止め、髪の毛とカバンをいきなりつかみ、「カバンの中のものを出せ」と顔を殴った。この間、高校生は反論しないで黙っていた。

<>


2007962333 読売新聞)


この文章のどこを省略し何を加えると、①になるのかを考えてみる。

まず省略されている部分は、
・普通電車の中からホームに向けて
・車掌らが注意し、高校生は「分かりました」と従い、ライターをカバンにしまった。
・隣の車両からその様子を見ていた巡査長
・高校生が友人と談笑しているのを「反省していない」と思い込み、
・髪の毛とカバンをいきなりつかみ、「カバンの中のものを出せ」と顔を殴った。この間、高校生は反論しないで黙っていた。

・付け加えられている部分、表現が変えられている部分。
・殴った平手打ち
・鶴ケ峰駅改札前の路上で、男子生徒と口論の末、 口論はなかった
・顔面を平手で殴るなどし平手が加えられている。
・が注意しようと呼び止めた「反省していない」と思い込み
・回転式拳銃の形をしたライターを乗客に向けて普通電車の中からホームに向けて

① 

<>


 調べによると、小磯容疑者は4日午後1050分ごろ、同市旭区の相模鉄道鶴ケ峰駅改札前の路上で、
男子生徒と口論の末、顔面を平手で殴るなどし顔面打撲を負わせた。
 高校生が電車内で回転式拳銃の形をしたライター(全長約36センチ)を乗客に向けて遊んでいたため、
降車後に小磯容疑者が注意しようと呼び止めたところ口論になったという。同容疑者は同僚と酒を飲んだ後、1人で帰宅する途中だった。 

 9590分配信 時事通信


省略されている部分は二つに分かれており、
A
高校生が車掌の注意に従ったという、
高校生のイメージの部分と、
B
唐突な行動とその動機である思い込みという
巡査長のイメージの部分。

これに加えられているのが、高校生と巡査部長が口論したという点。
そして、回転式拳銃の形をしたライター(全長約36センチ)という詳細が表記されている。
この詳細が、ABが省略されていることで、「言う事を聞かなかった高校生」というイメージを生む。
それを導き強調しているのが「36センチの回転式拳銃方ライター」であり「乗客に向けて遊んでいた」という二つの表現である。

「36センチもある拳銃方のライターを人に向けて遊んでいるような高校生は」きっと「ホニャララな奴だろう」という「ホニャララ」な部分を読み手に認識させる役割を果たしているのである。これが暗喩と呼ばれる表現である。

短詩文芸では、ある単語がそのような働きをしたり、もっと小さな文体、文章がそのような働きをするのであるが、暗喩を簡単に説明する事が難しい。
しかし今回の第一報で、警察官の唐突な行動とその思い込みを、消極的に報道したいという意識が働いていたのだとしたら、この文章は読者に「最近の若い者は」という印象を持たせたということで、全く正解なわけである。

ところが、これは文芸作品ではなく現実に起きた事件なので、被害者、加害者、関係者の認識と世間の認識にずれが生じ、日々消費されるニュースとして終らない結末を迎えることになった。
読者が「最近の若い者は」という印象を持ってしまった以上、それを注意した大人が罰を受ける(逮捕される)のでは、世の中の安寧秩序を守れないのではないか、という当然の疑問が巡査長を擁護する意見として警察に多数寄せられてしまったのである。

このように、物事を伝える方法として、全てを正確に綴るより、省略と比喩を用いるほうが、より伝えたい事象を強く読み手に印象付ける事ができる。
不都合な部分、つまり誤解を持って認識される可能性のある表現を削除し、強調して伝えたい事柄を、多くの読者がその表現・言葉から等しく連想するであろうというものに置き換える(暗喩)ことで、より強く伝える事ができる。
難解句と呼ばれる作品の中には、「あてずっぽうでこの言葉を置いているのではないか」と思いたくなるようなものも多い。
比喩・暗喩表現はあくまで「多くの読者がその表現・言葉から等しく連想するであろうというものに置き換える」ことが前提で、「手法が分かり合えている仲間内だけで理解される」ものであってはならない。私はそう考える。
しかし、一句でその全てを必ず備えていなければならないのかというと、それもちょっと違うのではないかと思う。
競吟で「何句詠む」というのではなく、
10
句、20句という連作の中で、その全体の中で存在できる作品も可能だと考えている。
全体があることによって「読者がその表現・言葉から等しく連想するであろうというものに置き換えられ」ていればその作品は成り立ちうると考える。
そういう場も、これからの川柳の世界には必要になってくるのではないだろうか。
2007年9月

◎省略について

ちょっとくだらない喩えなので、申し訳ないのだが、

「チカンに注意!不審者を見かけたら110番!」

というような立て看板を見かけたことがあると思う。
もともと「痴漢」は何故「チカン」と片仮名表記なのだろうかと思っていて、おそらく子供にも読めるためだろう、とかいろいろ考えていた。
「不審者を見かけたら」ということは、「不審な人物は痴漢を働く可能性があるから」という意味であろう。
で、先日、こんな看板を見つけた。

「チカン注意!見かけたら110番!」

初めのより短くなっているのだが、助詞がない分緊迫感が漂っている。そして「見かけたら」には主語がない。
主語がないことで、言葉の意味として「痴漢を見かけたら」なのか「痴漢行為を見かけたら」なのか分からないことになってしまう。現実には、痴漢という張り紙をして歩いている痴漢はいないわけだから、誰が痴漢かは分からない。しかし、そんな理詰めで理解する人はまずいない。
つまり、ここでは「痴漢」という名詞が「痴漢行為を働く」という動詞の意味も含んでいるということなのだ。

似たようなものに「泥棒に注意」「空き巣に注意」というものがあるが、省略によって、名詞が動詞(名詞+を働く・を行う)の意味も含む形に変化するのが、とても興味深い。動詞が省略されていても、意味が十分に通じる。むしろその意味を強調して伝えることに成功している。

川柳は十七音字で表記する。
つまり、常に言葉を省略していかないと、その形には収まらないのである。
推敲時に何から省略するのかは、それぞれに手法があるだろうが、まず「動詞」や「形容詞」を省略する事を考えたい。「説明句である」や「言い切ってしまっては残念」という批評は、そのほとんどが「動詞」や「形容詞」の省略が十分でない場合である。
似たものに「名詞+する」という表記があるが、意図的に一般的な行為に繋がらない名詞を使うことで、詩的効果をもたらす場合がある。例えば「諭吉する」や「粉雪する」「命する」などである。
2008年2月

◎表現の手柄

詩性に振る、という表現は適当かどうか分からないが、句に配置した言葉に、行動や現象を肩代わりさせるために比喩表現がある。
直接的には「~のようだ」「~のような」「~の」「~で」「~かも知れず・ぬ」などである。「~」の部分には、ほとんどの場合名詞が入る。
一般的には
「~の」「ような~」「~で・だ」
みたいな形で一句が成り立っている。
これは、川柳を詠まない純然たる読者に受け入れられやすい形で、

母おやハもつたいないがだましよい  初36 気を付けにけり 気を付けにけり

母の名ハ親仁のうでにしなびて居  二2 命なりけり 命なりけり

ばけそうなのでもよしかと傘をかし  五15 ねかひこそすれねかひこそすれ


などの古川柳のイメージに近いものである。

直接的な比喩表現は「うまいことを言う」と認識され共有される事がキモで、その言葉を発見したことが手柄になる。柳多留は前句附であるから、前句にたいして「うまいことを言う」という評価も手柄となる。で、この発見という手柄は、直接的比喩ばかりでなく、間接的な比喩・暗喩にも存在する。
ところがこの修辞法は、共有という観点から言うとあまり上手くいかない場合が出てくる。
十七音の世界で、表現の可能性を追求する場合、「句を詠む読者」だからこそ評価が可能な作品が存在してしまう。
純粋に川柳を読む読者が期待する作品世界と、十七音で表現の可能性を追求しようとする世界に乖離が生じてしまう。
「読者=作者=選者=評者」の中で先鋭化する表現の妙を、句を作らない読者にも味わって貰えるにはどうすればいいのだろうか。
やはり、平易な言葉による深い表現というしかないのだろうか・・・。
2008年2月

◎共有の難しさ

川柳作品について、読者との共有を考える場合に「平易な言葉・表現を使う」といことは、表面上分かり易いのだが、作品のレトリックという点から言うと、平易な言葉が用いられていても、作者の真意が必ずしも正確に読者に伝わるとは限らない。

湯豆腐の昆布のように捨てられる  信二

難しい言葉は何一つ使用されていないが、「湯豆腐の昆布のよう」という比喩が一読では分かりづらい。

「捨てられてしまった」のは、この句の登場人物、即ち主人公であり、女性である、ということが理解されないと、解釈が無限に広がってしまうか、解釈不能に陥ってしまう。
では、こういった傾向の作品は駄目なのかというと、そんな事はなく、十七音の可能性を考えた時、むしろ積極的に挑戦するべきであろうと考える。
では、共有制をどう考えるのか。
一つ考えられるのは、共有できるテーマ、手近なところでは時事を扱うという方法がある。

狸棲む一本道からの腐臭  帆波

しかし、時事をテーマにした作品の寿命は短い。句意を伝達するための事象が、時を経るにつれ色褪せてしまうからだ。作品の共有制というものは、必要なものではあるが、不変的なものではない。
故に

まだ寝てる帰ってみればもう寝てる  遠くの我家 サラリーマン川柳

という作品が世に出、人口に膾炙している事実の凄さを感じる。
この二十年、人口に膾炙する作品が、川柳界と呼ばれる世界から生まれていないことを
どう理解すればいいのだろうか?
2008年2月

◎比喩・暗喩

比喩(暗喩と対比させるため以下明喩とする)と暗喩は、十七音字という短い川柳にとって有効な表現法である。しかし、いざ作品を作るに当って、分かり易く「比喩・暗喩」を説明するのは難しい。
そこで「絵」を利用して、その概念を解説してみようと思い、いろいろと試行錯誤を行っているのだが、そのうちの一つを紹介してみたい。

まず①
これは輪郭だが、これだけでは何かは分からない。



次に②
鼻と口が付くと、人の顔だと分かる。



この状態で誰かが分かるとすると、その人物は鼻と口に特徴があり、その部分をデフォルメすることで、似顔絵が成り立つことになる。

③で目が入る。
大体ここでほとんどの似顔絵は、誰だかが絞られてくる。



④で完成。
福田康夫内閣総理大臣だが・・・



この似顔絵がうまく書けていることを前提にするが、似顔絵は人物の特徴をデフォルメ(強調)することによって成り立つ。つまり、本質を際立たせるための「明喩」が「似顔絵」なのである。
鼻なら「このような鼻」
目なら「このような目」
という明喩が人物を認識させるのである。
明喩とは、のように対象の特徴を際立たせるために、対象に対して行われるものである。

では、暗喩とはどういうものだろうか。
例えば⑤



サル山のボスが梯子を外されて、キョロキョロしいてる。
しかも子分たちはそれぞれグループに分かれてなにやら密談をしている様子だ。
サル山のボスが誰を喩しているのか、そして子分たちの行動は何を喩しているのか、その喩によって表現しようとする事柄を浮き上がらせるものが暗喩である。
つまり、対象に対して用いるのが明喩であり、事柄を浮き上がらせるために用いるのが暗喩である。
と、まぁ、絵を使うとこのような説明になる。

⑤で言うと、ボスザルは似顔絵の福田康夫総理でもいいし、民主党小沢一郎代表でもいい。
下で相談しているサルたちは、福田総理なら官僚、地方自治体、国民と捉えられるし、
小沢代表なら政局を睨んだ民主党内部の軋轢と捉えてもいい。
ここで、「捉えてもいい」という言葉に「ずいぶん無責任だな」という印象を持つ方が多いだろう。
書いた私自身は、福田総理を取り巻く現状を喩えようとしたのだが、絵心の問題で、出来上がってみると、どうも小沢党首と捉えたほうが面白いかな、と感じてしまった。
着想や事柄を浮かび上がらせようとする暗喩の試みは、必ずしも想定した結果を得られるとは限らない。
句でも同じような事が言える。
鑑賞者によって、作者が想定していなかった事柄が浮き上がってくることもあるのだ。
加えて、時を経るにつれて、新たな事柄に対応する読まれ方をしてしまう事もある。
作者の数だけ川柳が生まれ、読者の数だけ川柳になる。というわけだ。

川柳って面白いものだなと、最初に感じた川柳のイメージと、数多くの修辞法の試みの結果生まれてくる、作者の思いを代弁させようとする作品の乖離がここにある。釈然としないものが残るのだが、非常に面白い世界でもある。
一見分からないものの裏に存在する深い世界。また、一読で分かるのだが、視点を変えるとより深いところに真意がある世界。川柳の扉は一枚ではない。たくさんの扉の向うに、またたくさんの扉がある。
きりがないし、正解もない。だからといって「全てが否定されない」というものでもない。
簡単に作る一句に自分を乗せることはできない。
と、このところつくづく感じている。
2008年2月


                            
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