川柳の技術的なことあれこれ VOL 9

◎テンション

課長 島耕作が出世して部長から取締役になって、常務になって専務になって、とうとう社長になるようだ。1983年連載開始だから、四半世紀も経つ。
どこかで島耕作の句を見た記憶があって、検索してみたらやなぎさんが書いていた。

島耕作の漫画になってないところ やなぎ
http://blog.livedoor.jp/yanagigigasenryu/archives/24029293.html

感性は組み立てるものじゃない。直感をストレートに言葉に出来ることは才能だと思う。
けれども常にそのレベルのものを表現し続けるためには、組み立てるという訓練が必要になる。
組み立てる訓練が目的になってしまうと、感性が曇ってしまう。
自分の句を推敲する時に、初手の着想からどれだけ乖離しているか、組み立ての段階で「味」がどれだけスポイルされているかどうか、そういうことを考えながら見ると、拘りたい表記が必ずしも正解だとは思えない場合が出てくる。
句にしたい事柄を句にできないまま、ミミズのような文字がノートを埋めていく。
句を生み出すテンションは確かにあるのだけれど、そのテンションに居続けることができない。
溜息が十七音字だったらと思うことばかりである・・・
2008
年3月
◎意味の無い存在

民主党が山口県の補欠選挙で勝利。
さて、これから政界はどうなるのか?
今年「句箋苦闘」はこんなふうに「時事・ニュース」を中心に書いてきた。
但し、なるべくストライクゾーンから少し外れた見方を提示するように心掛けていた。
川柳で時事を扱うことは、十七音に事柄をまとめ、そこから意味を広げていく手法の取っ掛かりとして、分かり易いと感じているからだ。

山口補選を扱うなら
医者へ行く道が出来ても金が無い 帆波
という切り口が面白いかと思う。
しかしこれはその前に、後期高齢者医療制度と暫定税率廃止で起こった混乱についての文章を付け加えないと、形としては先の空想になるので、一読で共有されるかというと心もとない。
そもそも、この選挙の結果で与党がどうにかなってしまうかどうかなど判らないわけで、それなりに理屈を考えれば、野党がダメになる理由も、与党がダメになる理由も幾らでも考える事が出来る。

世の中の出来事は、そんなに安直なものではない。
経済のことも書いてきたが、円安も円高も何処までも進むわけではないし、株価がとてつもなく暴落したからといって地球がパカッと割れてしまうわけでもない。「風が吹けば桶屋が儲かる」的理屈で、ちょっとしたことの影響が連鎖反応を起こした集合体が世界だといってもいい。
時事川柳の寿命がどうとか言われるのは、現象の先にある結果が、現象を認識した時に理解した答えと食い違うことが往々にして起こるからだ。
だからといって「現象を認識した時に理解した答え」が間違いだったと簡単に断じることも出来ない。
なぜならそのときの認識によって影響を受けた事柄の連鎖が未来なのだから。
世界は「が」だけでなく「も」で成り立っている、そんなことを感じている。

これ川柳ではなく、これ川柳
という捕らえ方である。
文章と川柳を組み合わせると、その句は「訴えたい・伝えたい事柄を有する作者の意思の元に組み立てられた」という前提が成立する。
これまで川柳をやってきて、この前提が無意識に共有されている事を不思議に思うことが何度かあった。
そこで、「訴えたい・伝えたい事柄を有する作者」が自分と違う思考を持った人間として句を作ったらどうなるのだろう?
作品を組もうとする意思は紛れもなく自分なのだが、伝えたい事柄が自分と反する事、自分は伝えたくない事、そういうものをその作者(ようするに架空の)に吐かせるという手法は、もしかすると面白いのではないか?
そんなことを考えるようになった。
そして次に、始めから
「伝える意思も、伝えたい事柄も何も無い」一行。
しかし、何か気になる言葉の一行。
そういったものが作れないか?
そんなことも考えるようになった。
ちょっとしたことの集合体としての十七音。
そんなものはもはや「川柳」ではない。という感覚と、「川柳」だったら、そういうものも可能なのではないか?という感覚が行ったり来たりするのだけれど、面白いんじゃないかな・・・と、ちょっとドキドキしてはいる。
その作品を読んでくれる人を騙している様で悪い気もするのだが、鑑賞がばらついて、思いも依らない批評を頂けたり、批判を頂けたりするような、なんでもないんだけれど、どうにも放って置けない「一行」というものを作ることが出来ないだろうか?
20084
◎音と活字

「a.o.i.u.e.o.a.o」
「ka.ko.ki.ku.ke.ko.ka.ko」
よく発声の練習で耳にするフレーズである。
言葉には、言い易い言葉と言い難い言葉がある。
現在のアメリカFRB議長は、ベン・バーナンキ氏であるが、彼がまだそんなに知られていなかった頃バーナンキ氏なのか、バーナキン氏なのか、頭の中で中々整理のつかなかったことが印象に残っている。
スペルは Bernanke 日本語読みで一音ずつローマ字にすると「ba.a.na.n.ki」となる。
日本語と英語(外国語)の違いは、母音で終る発声か、子音で終る発声かだと言われる。
だからBernankekeは「キ」と「ク」の間のような音で、「ki」ではない。
当然、「ba.a.na」の「na」も「na」つまり「ナ」ではないのだ。
これは、英語の発音の話ではないので、日本語読みとして進めるが、
「na.n.ki」の部分、「ナ・ン」と口が閉じてからいきなり「ki」を発音する形に口を動かすのは「ナ行」や「マ行」に比べて横方向への緊張が起こるため、バーナキン「ba.a.na.ki.n」の方が発音するのにストレスが少ない。
「n」から「ki」より、「na」から「ki」の方がスムーズに発音できるわけだ。
発音のし易いし難いを別の例で見てみよう。
「あ」と「い」の間に「あ、か、さ、た、な・・・」を挟んでみる。
「ああい」「a.a.i」
「あかい」「a.ka.i」
「あさい」「a.sa.i」
「あたい」「a.ta.i」
「あない」「a.na.i」
「あはい」「a.ha.i」
「あまい」「a.ma.i」
「あやい」「a.ya.i」
「あらい」「a.ra.i」
「あわい」「a.wa.i」
単語として使われる言葉とそうでないものが混ざってはいるが、発音し易いものと、し難いものがはっきり分かれてくる。
ところが「a.ka.sa.ta.na.ha.ma.ya.ra.wa」はすらすらと発音できる。
これは慣れというより、舌の位置が順をおって移動していることと、「a」という母音の発音が子音の口の形を残したまま行われているからである。つまり「a」を「ア」と発音していないのだ。

では次に、いわゆる「い・抜き言葉」を見てみよう。
「変えてて」「ka.e.te.te」
「見えてて」「mi.e.te.te」
「飢えてて」「u.e.te.te」
「燃えてて」「mo.e.te.te」

「e.e.te.te」という言葉が思い浮かばなかったので、直前の子音が「a.i.u.o」の例になったが、正確にはこれらの言葉は「te」と「te」の間に「i」が入る。
では何故、特に口語の場合、これが省略されることが起こるのだろう。
「あ、か、さ、た、な・・」のように、同じ母音の連続による発音の簡略化や、「te.i.te」と発音する場合の口蓋の緊張感の回避、という理由が考えられる。加えて、会話のスピードの変化、口調の変化など、時代性ということも要素に入ってくるのではないだろうか。書かれた活字を読む場合に起こる「い・抜き言葉」への違和感は、モーラ()として考えた場合、一音ずつ頭の中で再生する時に起こるそれといえるのではないか。

「見れる」「mi.re.ru」
「食べれる」「ta.be.re.ru」
のような「ら・抜き言葉」はどうだろう。
それぞれ「i.ra.re.ru」「e.ra.re.ru」が正確な表記なのだが、同じ子音で違う母音が連なる形である事がわかる。
やはり会話のスピードや口調の変化が考えられるが、「ra.re.ru」と発声する場合の口蓋の緊張感からの脱出という見方が出来ないだろうか。
つまり「あ、か、さ、た、な・・」の様に、あいまいな母音の発音では言語として伝わらないため、子音は同じなのだが、母音の区別を強く意識しなければならないからだ。
その点で言えば、活字を脳内で再生する時に起こる違和感も理解できる。
もっとも「られるれる」は最近では市民権を得つつあるというか、表現の中でも比較的新しい「可能表現」における、より積極的な「能動的可能表現」として用いられつつあるという印象を私は持っているが。

言葉は、文法として正しいか正しくないかの前に、意思が伝わるか伝わらないかが前提となる。人工言語でない限り、文法の後に言葉は存在しない。文法は言葉の後にしか存在できない。
従って、書き言葉より話し言葉の方が、言語の変化の兆候が現れ易いといえる。
また、変化する事が良いとか悪いとかではなく、言語は変化していくものでもある。
読み方、文法が変化していなくても、その言葉の持つ意味が変化していく事すらある。
言葉は概念を伝え合う側面も持つ。例えば、Dangou Soukaiya 最近ではMottainaiなど、
外国でもそのままの音で使用されている例も見られる。
そこで川柳について考える。川柳はノートに書く、葉書に書く、応募用紙に書く、句箋に書くというように、伝える場合は活字として表記される。新聞・雑誌など大方の場合、発表もまた活字である。
しかし句会では、その場では音として発表され、音として認識され、批評の対象となる。
タイムラグを置いて「句会報」として発表されるが、その活字を見たときに、句会・句座に参加し、リアルタイムで音として作品を認識していた読者と、句会・句座に参加せず、音で作品を聞かず、活字を読むことで作品を認識した読者との作品認識は、果たして同じだろうか?
また、句会中心の作者と投稿中心の作者の頭の中にある十七音のモーラは、同じなのだろうか?
句会独特の披講という行為を行う「選者」は、音として伝えられるかどうかを選考の基準に組み入れなければ、パフォーマンスとしてその座の価値を維持できないのではないか?
そして作句者は、披講によって他者に伝わる作品なのか、後日活字として他者に伝わる作品なのかを、推敲に加える必要があるのではないか?
しかしこの二つは矛盾する事でもある。
表現手法が非常に多角的になり、中でも読み手の感情を左右する事を目的とした手法が採られた場合、
これまでの延長線上にある「披講」では、対処できない場面が生まれてくるのではないか、いや既に生まれているのではないか?
このところ、そんなことを考えている。
2008
年7月
女性は存在しない

フランスの精神科医ラカンは「女性は存在しない」と言った。
女性の社会的位置付けとも関連すると思うのだが、「女性(じょせい)」「女(おんな)」という言葉に対応する「男性ではない人間」を一つの概念、それを暗示する形あるものに置き換えることは出来ない、従って女性は存在しない。
確かそんな意味だったような覚えがある。
もっとも、大学でまともに勉強した訳ではないので、いい加減な解釈かも知れないが・・

川柳を作るときに、作者を女性だと想定して作品を作る場合がある。それは当然、伝えたい事柄・概念が「女性が表現したと推測される事」で、より伝わるだろうと認識しての事である。

例えば、

面倒な男をどこに捨てようか
奥様のことを話している背中


のように、虚なのだけれど、実際に男にとって都合のいい女性、男の勝手な偶像、妄想にピッタリ当てはまる女性など存在しない訳で、そこを突いていくと何か面白い作品が生まれるのではないか、そんなことを時々考えてはいる。
しかし、そこで悩んでしまうのが、私自身が女性ではない、ということ。
従って、男の私が考える魅力的な女性というものは、男の尺度で組み上げた偶像・妄想の部分を必ず含んでしまう。
そこでラカンの話になる。
男が本能的に求めている女性は、実は存在しない訳だ。そうすると逆に、女が本能的に求めている男も存在しないということになる。
社会における男女の役割が等号でない以上、お互いが求めているものは偶像・妄想に過ぎないことになる。
そこの実像を見分けようとして虚を用いるのだが、その虚のベースも「作者から見た異性に偶像を持つ同性」の視点を超えることは出来ない。
などと、きりのない事を、ぐすぐすと考えている・・・。
2008年8月
あらすじ

あらすじ本」というものがある。
売れているのかどうかは知らないが、結構な種類出ている。
文学、いわゆる芸術の類は、果たして「あらすじ」で理解できるものだろうか。
ふと、そんなことを思って、それからあれこれ考えていた。
川柳。まぁ、川柳だけではなく「短詩文芸」は作者の思いの「あらすじ」ではないだろうか?
句に触れて、「あぁ、あのことだね」と読者が感じる「思い」の部分の共有性が高い事が、明解さであったり、人口に上る部分ではないか。
名作と呼ばれる文学作品は、その読後に抱く印象を「あらすじ」に帰着させられるものではなく、その作品世界全体にあるのではないか。
即ち、「読後の印象」が広い共有性を持つ必然はないのである。
ある意味「あらすじ」は答えであって、その答えが「正解」である必然はないのだ。
「あらすじ」から作者の「思い」が読み取られ、その「気付き」が「高い共有性」を持つという文芸作品と、
作品から読者が得る感情が、「あらすじ」として他者に伝えられたとしても、「読者の得た感情」を「他者は共有できない」作品。
しかし、その他者は、作品を読むことで彼なりの感情を得られる作品。
そしてそこで得た感情の価値が、確実に評価の対象とされるもの。
絵画や音楽でも、同じことがいえると思う。
「素晴らしい」ものは、「こういう理由で素晴らしいのです」という答えの提示を理解することで素晴らしいのではなく、対峙した鑑賞者の感情として評価されるものではないか。

このことを川柳作品に当てはめた時に、「読者が感じた気付き」茂木健一郎氏の言う「アハ体験」のようなものに、作品の評価が帰着するのではなく、十七音字の作品そのものに、読者の感情が帰着する。
つまり「説明できないのだけれども、この句いいよね」という、意味を超えた「思いそのもの」「感情そのもの」が共有されるような作品。
そういった十七音字は創れないものだろうか?

課題吟を作っているときに、ふと、課題を辞書で引いたときの解説のようなものを送り出そうとしている時がある。「課題」に対して「そういう見方もあるよね」という句が、「しまった、その見方があったか」という、競吟の場故の「アハ体験」を評価の対象としていないだろうか。その時点で「上手く作れた」と自分を満足させていないだろうか。
「あらすじ」として要約できない、十七音字を詠めないものだろうか。
200812
無季俳句との対比

本棚の整理をしていたら、
無季俳句の遠心力(雄山閣出版)という本が出てきたので、もう一度読んでみた。
「俳句には季語があって、川柳には季語がない。」
という単純な対比をしていないところが面白くて、十年ほど前に読んだ本である。この中で、雄山閣の復本一郎氏は
「連歌至宝抄」にある「連歌に無季の発句はない」という言葉から、連歌が季語を取り込んだ意味を解説されている。

広がりゆく「俳句」のフィールド -無季と有季の新思考 より

>「座の文芸」として連歌を巻く時に、作りたての作品であるということを強調する必要があった。
とれたての作品であるということ、鮮度の問題ですね。ですから、連歌においては、ただ当季、その時節の季のことばを詠み込めばいいというわけではなくて、座において見られる自然とか風物としての季語を詠む。そこにおいてその季語の意義がはっきりしてくる。
俳句における季語とは、俳諧の発句が持つ性質を受け継いだものといえる。
そこで「座の文芸性」を考えた場合、歳時記の「季語」と「座の季性」の間の微妙な違いについて思いが浮かぶ。これを時事性と捕らえると、附け句であった川柳に季語がないということは、その前提に「座の季性」が存在する、ということにならないだろうか。


-現代川柳における<超季>の新視点-として、平 宗星氏が俳句と川柳を比較しておられる。その中で興味深いのは、

戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡邊白泉

手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴彬

と渡邊白泉氏の無季俳句と、鶴彬氏の川柳を取り上げておられ、
>無季の口語表現の俳句が積極的に発表された昭和十年代に俳句と川柳は、同時代の短詩型文芸として最も接近したように思う。<

と述べておられる。

私はこの二つの作品を対比して読んだ時に「座の季性」という観点で、渡邊氏の作品は間違いなく俳句で、鶴の作品は間違いなく川柳である、と認識した。

戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡邊白泉

は、金子兜太氏が
「これは実話で、本当に白泉氏の自宅の廊下の奥に憲兵が立っていたそうだ。」
と解説されていたのをテレビ拝見したことがあって覚えていたのだが、つまり、その瞬間に詠まれた作品、「座の季性」そのものの作品である。
この作品は「戦争」という言葉が「座の季性」を有している俳句であり、その言葉が「歳時記」になくても「季性」を有していると見ることができれば、俳句であるといえる。
では、

手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴彬

はどうか。
「丸太」という言葉は、731部隊が実験体を「丸太」と呼んでいた事を連想させるが、機密であった731部隊の事を、陸軍赤化事件を起こし収監されていた鶴が知るよしもないわけで、日清・日露、第一次世界大戦の戦勝により、国際連盟の常任理事国となった当時のわが国の世論が認識していた「戦争」に対する「反戦」という視点。
つまり「戦勝」に沸く世論の裏に、かのような兵士たちが存在することの同時性。
それに対する痛烈な批判と理解するのが自然であろう。つまりこの作品には前提となる「季性(時事性)」が存在している。したがって作品の中の言葉が「季語」を有する必要がないと見ることができるのではないか。

川柳と俳句を対比することは、とても興味深い。
特に同時代、同テーマで描かれた作品の対比は思いもよらぬ発見を生む。短歌のように、十七音より長いものとの対比を試みるのも面白いかもしれない。
2009
2

◎身に付いた手法にも付く垢汚れ

最近、
「川柳を作る場合に、川柳を書いちゃダメなんだ」
と感じている。
書いちゃダメだという「川柳」は、私の中にこびりついている手法、予定調和的な課題へのアプローチのことで、浮かんだ着想をはめ込むのに、
・「~のような~」+「下五」
・「~は~にする(なる)(ある)」+「下五」
・上五から中七で提示した状況を否定する下五
みたいなものがあるのだけれど、こういうものに対して、
「これってどうなのよ?」
ということを強く感じる。

この間の川マガ東京句会で

泣くための胸を妻には借りられず 帆波

という句を出したのだけれど、
推敲の段階で

泣くための胸は妻には借りられず

というのがあって、読み下す時に、この方が「は」の部分で上下に切れるというか、間を発生させられるので、「泣くための胸」というのがより主役になるのかなと思った。
「を」だと「妻に借りられない」ということの比重が重くなるような気がした。当然、

「妻にも借りられず」

というのも検証したのだが、こうなると「第三者に借りたことがある」という意味も出てしまうので、表現したい思いとずれが生じてしまう。
作品としては、今の社会における男性の辛さを描きたかった。それで最終的に「胸を」という形になった。
句評会では、数名の方に、私の句意のように理解していただけた。
その時に、やはり改めて感じるのが、「推敲時の違和感の根本の部分」に、これまで句を詠んで来た中での「文脈」というか「文体」というか、そのこびりついているものとの距離のずれである。
「川柳」を書いちゃいけない、というのは、見様見真似で身についている「文脈」というか「文体」というアプローチを、一旦リセットする必要があるのではないか。ということである。
見様見真似のアプローチで表現できること、できないこと、は確かにあって、
じゃぁ、できることはそのスタイルで表現して、できないことは別の形を考える、
という方向と、
できるのだけれどもそうでないスタイルを使ってもいいのではないか、
という方向。

難しい作品を作るとかいうことではなくて、全く個人的な感覚なのだけれど、内容ではなく、形式としての予定調和的なるものを、一度外して考える時間が欲しいと感じている。
20094
前句附について
川柳マガジン句会で「前句附」についてテキストを用いて勉強いたしました。
「前句附」というと万句合せというイメージがありますね。
「賑やかなこと 賑やかなこと」という前句に
降る雪の白きを見せぬ日本橋
という作品をお聞きになった方は多いとおもいます。
で、この「前句附」というものは、前句が無いと、つまり五七五の後に七七の前句を附けて読まないと意味が通じない形で作らなければならないのか?
それとも、十七音字で独立した作品として作るのか?
というご質問が以前にありまして、一度まとめて解説し実際に「前句附」をやってみて、そのあたりを考えて見ましょう、ということでした。
それで今回は附け句の歴史を振り返ることで、「前句附」について考えて見ました。

もともと歌は、投げかけに対しての答えという、二句で一首という形で発達してきました。
ですから、初期の頃は、前句の呼びかけに対する、答えとしての附け句という形です。

その後、「附ける」という行為が文芸性を持ち、与えられた前句に、季節や恋などをテーマとして附け句を競うことが行われるようになります。
その中には、答えとして前句が与えられ、その答えを導くための附け句が、呼びかけの形で作られるようになります。
分かりやすく言うと、五七五の呼びかけを、七七の出題から作り合うというわけです。
当然、五七五の呼びかけに対して、七七の答えを作ることもあるわけです。
このような附け合いを沢山つなげていくと、連歌となるわけです。

連歌は、参加者皆で附け句を考えていきます。
差配する人が沢山の作品の中からどれを附けるかを判断していきますが、発句から始まって挙句になる過程を、皆で楽しむ、そう、例えば小旅行を楽しむように、その思いと時間を共有することが醍醐味といっていいでしょう。
ですから単調にならないように、驚きを体験できるように、細かな決まりごとが定められています。

平安時代から室町時代にかけて、その文芸性は進化していきます。

戦国の世が終わり、江戸幕府が開かれ、世の中が安定してくると、文芸は一部の愛好者だけでなく、広く大衆にも受け入れられていくようになります。

沢山の人が参加するようになれば、細かい決まりごとが煩わしくなってくるものです。
また、地方では有名な宗匠がいませんから、入門編としての一句一句の附け合いや、附け句そのものが単純なもの、例えば漢字一文字であったり、上五に対して七五を附けるものなど、様々な「雑俳」というものが盛んに行われるようになっていきます。

これは本当に沢山の種類のものが生まれていきました。だた、前句(出題)が簡略化して行くと、どうしてもお遊びの要素が強くなってしまいますから、流行廃りの激しいものとなってしまいます。
例えば「字割り」と呼ばれるものなどは、句の頭に使った漢字を偏とツクリに分けて読み込むものですが、

細い手で糸みみず選る水田かな

「細」を「糸」と「田」に分けています。
こうなると、句の意味よりも、ルールの方が上に存在してしまいます。

このように附け句と言っても多種多様なものが存在していたわけです。
その中で前句、附け句供に独立性が高く、文芸性を満たしていたものが「前句附」として後の「万句合」へつながっていくわけです。
ですから、今「前句附」として主題された場合、その附け方の考えとしては、独立性を持った句を十七音字で詠む、と捉えていいのではないでしょうか。
「前句附」だからということで、助詞で止めたり、連用形で終らせる形に拘ることは、歴史の流れから見て逆行することになるのではないでしょうか。
20095

答えではない面白さ

先日、仕事でパントマイムの指導者の方とお話しする機会があった。幾つかの演技を観ていて、パントマイムが「喩」である事に気が付いた。

小さな箱が欲しいとき、私たちは
「このくらいの箱・・」
と、手振りで大体の大きさを表現する。
しかしそのときの手振りは、箱の形や材質を伝えるものではないはずだ。
あくまでも、その用途として必要な大きさを表現しているに過ぎない。

パントマイムの場合は、その形、どこが角で、どのくらいの重さで、蓋があるかないか、そういったことを表現する。
そしてその動作は、実際に箱を持っている場合にはありえない手の位置だったりする。指や手首の角度で、箱そのものの情報を表現するのである。

マイケル・ジャクソンのムーン・ウォーク。
前に進もうとしているのに、後ろに進んでしまう・・ように見える。
実際の動作は、後ろへ進んでいるのだが、その動作の中に「前に進むように見える動作」を付け加えているのである。この「前に進むように見える動作」だけでは、実際に前に進むことは出来ない。

明喩と暗喩の違いを説明する場合、
「このくらいの箱」という手振りは明喩で、
「パントマイムで表現される箱は」暗喩。
そう理解すると、メタファーの効果がより認識しやすくなる。
単語によって励起されるイメージの連続体が、短い作品に命を与える。
川柳の「読み」は、その中で読者が何を感じるのかを、読者自身ではっきりと認識する事でもある。
読み違いを「間違い」「物を知らない」などと断ずる事は、短い作品に短い意味を与える行為に繋がる。

短い作品が高い完結性を持つと、それは単なる報告・説明になってしまう。

パントマイムは報告と説明ではない。
其処には、観るものが想像を働かせる余地が存在しているし、想像を働かせなければ楽しめない。

大雑把に「難解句」と呼ばれるものは、難解ではない。判ろうとしない読者、想像しようとしない読者によって「難解」というレッテルを貼られているに過ぎない。

課題吟はクイズの答えではない。川柳も人生の答えではない。答えなら、其処で終わってしまう。
そこで終らないから面白いのである。

2009年7月
十七音字の使い方

物語には「伏線」が付き物である。張られていた伏線によってオチが生きる噺も多い。推理小説では、犯人や凶器が伏線としてさり気なく配置されている。
「伏線」は「伏線」だと判った時点で伏線にはならず、物語そのものを台無しにしてしまう場合すらある。
川柳は十七音字しかないから、上五で伏線を張って、下五でそれが繋がる、などという作り方は物理的に難しい。しかし、課題吟では「課題」そのものを伏線のように扱う場合がある。句を読んで、解釈し、今一度課題を見ることで「なるほど」というような手法の作品である。
時事吟では、ほぼ共有されるであろう事象をもって、作品が組み立てられることが多く、やはりその「事象」に読者が気付いた時点で「なるほど」という共感を呼ぶ。

句の意味の前に、共有できる事柄(事件・事象に限らないが)の存在する事が、句に共感を与えるかどうかの分かれ目にあるといってもいい。
「季語」を持つ俳句は、それによって土台となる共有性を持つし、短歌は三十一音字と長い分、問いかけと答えという、共感へ至るスタイルを生み出すことが出来る。
では、句を読んだ個々の読者が、個人が持つそれぞれのイメージによって「なるほど」と理解する作品は生まれないのだろうか。

要するに、句の外に共有される事象を持たない作品。
例えば、上五に配置された言葉が何かを想起させ、残り十二音字で表現されているものと反応するような作品である。
文体として、○○は、○○○で、○○だ。
のように、落差や比喩によって、読者に「なるほど」と思わせる作品とは違って、

●●●
 ○○○○ △△△

のように、●●●は何だろう、もしかすると□□かも知れない、そうだとすると○○○○××で、△△△は・・そうか、なるほど。と、読者がそれぞれ理解していく。
そんな作品。

作品は「解る」という事が大切だと通常考えられるが、十人が十人とも同じ理解しか出来ない作品は、逆に魅力がないのではないかと思う。
同じように、十人の内七人が解らなくて、三人が解ったとしても、その三人が全く同じ解釈しか出来ないのなら、やはり詰まらないのではと思う。
その三人がみな別々の解釈をし、そこに議論が生まれるような作品。その議論を聞いて、残り七人も個別の解釈を持つようになる作品。
そういった作品は、面白いと思うのだが。
2009年8月

納得のいく没、納得のいかない入選。
今更という感もあるが、競吟とは句が抜けることを競うものであろうか?
これは誰もが感じたことがあるはずだが、競吟で全没だったにもかかわらず、とても納得できる場合がある。披講されたどの作品もが、自分の着想を凌駕していた場合。
披講された作品群の傾向が、自分の作品と全く違っていた場合。
披講された作品の中に、自分と同想のものがあっても、その仕立てが自分の作品より数段上だった場合。
こんな場合、大体没でも得るものが多かったわけで
「いい句会だった」ということになる。

逆に抜けて納得がいかなかった場面もある。
上に挙げた状況であるにも関わらず、場違いなように自分の作品が抜けてしまう場合だ。活字になるのが恥ずかしくなってしまう訳だ。

一つの課題に対して、どこまで外せるのか、触りえるギリギリの地点はどこなのか。着想を表現する場合に、どこまでの見立てが、どこまでの比喩が、伝わる限界なのか。それを競うのが競吟ではないのだろうか。
ただ、抜ければ良いというのなら、前もって投句を集めて、プリントを配ればいい。披講は、活字だけではなく、言葉で、しかも十七音字という短い文脈で、着想とその広がりを伝えることが出来るかどうかの実証であろう。
即吟、即選、即披講において、疑問が生じた場合、その疑問に対して選者は答えられなければならない。
その時間を全ての句会で持つことは難しいだろうが、句会終了後、選者に質問することがルール違反だということはない。
だいたい、どんな選者も、三日くらいは選考過程を覚えているはずだから、遠慮なく聞くという空気があってもいいかなと思っている。
200912

言葉が持つもの

ズバリ書くと、嫌悪感を抱かれる言葉、文章がある。
これは、二通りあって、感覚がずれていて、所謂空気が読めていなくて、嫌悪感を抱かせる、というのと、逆説的にわざと、強調する目的で表現する場合がある。川柳は短いので、逆説的に使うと結構切れ味のいいものに仕上がることがあるけれど、短いゆえに、まともに読まれてしまう場合もある。
修辞として理解されず、非常識な言葉として理解される訳だ。
けれど、もっと短いもの、例えば小説の題名のようなものだと、何か雰囲気のある言葉に仕上がる。

「蜻蛉と糞虫」
「星と首吊り」


みたいな感じ。
意味なんか無いのだけれど、言葉の持っている力、もちろん肯定的な力だけではないが、そういうものの面白さを感じる。
そして思うのだが、やはり五・七・五の定型は、思いを伝達する強力な装置なのだ。
多少音字が崩れていても、その形自体が、何かを訴えたい形をしていると、読み手に思わせる、そんな力があるのだろう。

20101

自由律

書店で見かけたら手にとってしまうような題名
「悪魔は五歳」
「悴んだ君」
「ピカレスク・スター」
「就 労」


ノンフィクションぽい書籍の名前、
「性癖を歩く」
「飲尿と頻尿」
「哲学としての大盛り」
「天才のくずかご」


絶対B級だろうという思う映画の題名
「サンダルヒーロー」
「ブリーザーズ(雪女VSなまはげ)」
「脱肛ラプソディー」
「横浜ジンギスカン」
「ワタシハ凹」


アメリカで賞をとりそうな題名
「KAMABOKO」
「東 大 (A university with the highest authority in Japan)」


言葉の組み合わせによって生み出される新しい意味、雰囲気、イメージが面白くて、ノートに書き溜めている

これまで、自由律川柳については、書いてこなかった。定型の持つ川柳感、その伝達性を土台に考えていきたいというのがあって、触れてこなかった。
そこで、短い言葉の組み合わせによる、ちょっと面白い言葉を参考にに、自由律というものについて考察してみたいと思っている。
20101

五・七・五の定型は、思いを伝達する強力な装置。
多少音字が崩れていても、その形自体が、何かを訴えたい形をしていると、読み手に思わせる力がある。と書いた。
つまり定型(この場合、中八、下六も含めることとする)によって区切られている間が、読み手に、「これは句である。川柳か俳句である。面白いことか、風流なことが表現されている」という認識を持たせる、ということである。
この場合、上五、中七、下五のパートがそれぞれ有機的につながり、主語や助詞の省略はあっても、一つの文章として意味を成している。

さて、先の勝手に作った書名
「蜻蛉と糞虫」「天才のくずかご」
のような言葉は、それ自体では文章として成立していない。しかし、何だろう?という好奇心を刺激する力を持っている。そして「書名のような」という前提があれば、読者はその書物の内容を想像するだろう。
また、前提がなくとも、言葉の組み合わせによる、それぞれの言葉の意味の変化、組み合わさった時の新しいイメージによって、読者の中で世界が創造されていく。
定型を用いなくとも、何かを表現している言葉だという認識を読み手に抱かせられるのであれば、定型を使わなくとも、川柳性を伝達することができるのではないか。その点において、非定型、自由律というのは、創り手にとっては、自然な道程だといえる。

蛞蝓かも知れないからアリバイにならない足跡

という川柳も成立可能なのである。

就 労

という作品も、一字空けの部分を表現だと認識してもらえるのなら成立可能な川柳ということになる。乱暴に見えるが、定型を伝達の前提と捕らえるならば、その前提がなくとも伝達が可能な世界が存在することは、不自然なことではないのだ。
2010
1

定型を用いなくても、という書き方をしたが、それは定型を伝達の道具として認識した場合であり、加えて川柳を形作る必要条件だと考えれば、定型を用いないという発想はNGということになる。
では何故、定型を川柳の必要条件と認識せず、伝達の道具としなくても川柳の本質を捉えることが可能だと考えるのか、について検証する。
先の「何々のような題名」というお遊びで
「アダルトビデオの題名にありそうな言葉」というものを考えて見る。

幾つか作ってみると判るが、

ペニスの商人
肉体の悶々

など、所謂「もじり」
また、団地妻という言葉を持ってきても、
それだけでは過去に存在していたものをバックボーンとした、イメージの再生産に過ぎず、
新しい言葉の意化を発生させる表現が難しいことに気付く。
それは「アダルトビデオ」という命題そのものの本質が非常に特徴的であり、伝達される事象が特殊で且つ狭い。つまり定型感が強いのである。
従って表現は直接的な言語の組み合わせに陥らざるを得ない。
命題が明らかなジャンルでは、その本質を外さないために、広がってゆく言葉ではなく、収斂していく言葉が求められるのである。

そこで、川柳の本質は定型にあるのかどうか、という事を考えてみる。アダルトの例のように、その本質が、誰が見ても一定の枠内にあると認識されるような事象は、その枠内に収斂してゆく言葉を用いることによって伝達される。
では、川柳の本質がその定型感によって担保されているとすれば、川柳の表現は常に「定型である」という命題に収斂する修辞に終ってしまう。

定型によって区切られている間が、読み手に、「これは句である。川柳か俳句である。面白いことか、風流なことが表現されている」という認識を持たせる。
上五、中七、下五のパートがそれぞれ有機的につながり、主語や助詞の省略はあっても、一つの文章として意味を成している。

これが川柳のカタチであり、これによって川柳が定義されているとすれば、表現手法はこの命題の範囲を超えることのない修辞に終始すると考えられる。
しかし現実には、言葉と言葉の配置、衝突による新たな意味の発生による試み、また五・七・五それぞれを跨いだ形態の作品が存在する。
これらは「これは句である。川柳か俳句である。面白いことか、風流なことが表現されている」という読み手の認識からわずかであるが離脱していることになる。
これは、川柳の本質が唯形だけに拠らないものであることの証明とならないだろうか。


川柳の本質は
「定型を意味の伝達の道具として使用した文脈」ち、一章に一つないし二つの拍を持ち、七五調的律を有する作品と考えるのか、

それとも
「言葉の意味、配置における意化を含めて、読み手に何かを感じさせるもの、その表現される事柄や表現法」
に本質が存在すると考えるのか、

という大きく二つに分けることができる。

しかし創作者の行動としてみた場合、定型の外に本質が存在するという考察は「間違っていない」のであり、創作物の是非と世間の理解・不理解が、創作行動の是非にリンクすることではない。
従って、「川柳」の本質が、修辞を含めたその定型に存在するのではなく、言葉が作り出す世界にその本質が存在すると考えることができる。
定型を意識せず、非定型、自由律をもって川柳を詠むことは、川柳の本質というものを追求する手法の一つだといえるのである。
何も、長い歴史のなかで形作られた定型というものに、取って代わろうとするものではない。表現探究の道程の必然として、非定型、自由律は存在するのである。

極端な例を扱ってしまったが、「型」が持っている性質について考えるヒントになれば幸いである。20101


                           

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