川柳について あれこれ VOL2

◎「川柳」と「川柳」の違い

現代川柳と世間で言う、「川柳」の違いは何処にあるのだろうか。
ここからは私が肌で感じている事なので、それが正解なのかどうかは保証できないが、人間臭の差にあるような気がしている。
句会の句は先ず課題があるために、作者自身が一人の人間として訴えたい事柄を全て句に託すという訳にはいかない。
その上に抜句という結果を求めるのであるなら、その傾向と対策に腐心する事もあろう。このように句会空間には何処か技術的知的欲求への快感が潜んでいる。
しかし、句会とは違うさまざまな媒体で募集され、活字になり、音声になり、映像になりする川柳への参加者の多くは、その結果を求めるという欲求以前に、世の中に対して何か訴えたいという欲求を持っている。

結果が駄洒落であれ、字余りであれ、たとえその訴えに正当性が無いものだとしても、その作品のストレートさ、人間臭さというものは、ある部分句会川柳のそれを凌駕しているのではと感じる事がある。
先ず、作りたい、主張したいという欲求が主体で、そのような川柳が持つ力に対して、世の中の人々は何かを期待しているのではないだろうか。
川柳で何ができる、何処まで表現できる、何処まで表現して良いのか、などを探求することが川柳界の進む道とするならば、それが、世の中が認識している「川柳」という日本語と、微妙に食い違うのは仕方が無いのかもしれない
2005年01月

川柳界からすると、世の中の川柳に対する認識は間違っているのだろうか。また、世の中から見ると川柳界のやっている川柳は邪道なのだろうか。
どちらの答えも私はNOだと考えている。

川柳を自己表現・自己主張のツールと考えた場合、世の中の川柳を作りたいという欲求、自分の主張を代弁してくれる川柳への期待、と、十七音に何処まで自己の思いを乗せられるのか、人間そのものをどれだけ詠み上げる事が出きるのか、という川柳界の試み、とは一つの線上にあるものと言えないだろうか。
私にはこれが消費欲求なのか、製造欲求なのかのバランスの問題に思える。
消費欲求が強ければ、自己消費であり、代弁への期待が強くなるし、
製造欲求が強ければ、表現の探求や、人間探求へと進んでいく。

川柳にはそれだけの幅、懐があるのではないか。
2005年01月


◎川柳の笑い

以前某新聞紙上に、
◎最近良く笑っているという人が62%
という記事が出ていた。
笑いと川柳とは切っても切れない関係にある。ところが川柳界では川柳に笑いが少なくなったと言われることが多い。川柳マガジンなどはわざわざ「笑いのある川柳」という投稿コーナーを設けているほどだ。

「笑える句」と「笑わせる句」と「笑われる句」では
着想の根本が違ってくる。

川柳では「(わざと)笑わせる句」と「笑われる句」は扱わない。そう言い切ってもいいと思う。「笑える句」にしても「嘲う」「嗤う」「笑う」と、微妙に感情の違いが存在する。調査結果にある、人の欠点をあげつらうものや、猥雑なものを認めない人が多いのに勇気付けられる。

世の中と現代川柳のいう「笑い」に違いはない。難しい顔をして作った句が難しい顔をする必要はない。そういった意味での「汗」が、句からにじみ出ないようなものを作れないだろうか。


◎古ぼけない句

句が出来たときに自分では本当によく出来たと思っても、他人には通じないことがある。そこで説明すると、たいていは判ってもらえたり、中には面白いと言っていただける場合もある。
しかし説明しても通じない、理解してもらえない場合がある。柳は言わないで表現するところに難しさと同時に面白さがある。句会で川柳を楽しんでいると、つくづくそう思う。
けれど世の中でいう「川柳」には「そこまで言うの」「そんなことまで言うの」的な“毒”を孕んでいるものを、読者(世間)の代わりに川柳が詠み、溜飲を下げているような場合が見うけられる。

句が句としてでなく、句の意味する事柄が、ツールとして消費されていく。
私にも「どうだ面白いだろう」的感情がギラギラした句を作りたい欲求はある。しかし、そういう句が活字になったときに何ともいえない虚しさが起こるのだ。活字になるまでの時間の経過が、座においての瞬間の高まりを全くの過去にしてしまうのだ。
時間的制約もあって、作る句作る句に80点以上を求めていては月に、いや年に何句も作れないだろう、
などと言い訳がましい事を書いてしまったが、何とかスルメのような句・題材を見つけるコツというか、方法はないものだろうか。
2004年12月


◎川柳の読者

川柳吟社や柳誌は同人や社人、会員と呼ばれる人達で構成されている。私も幾つかの会のそういったメンバーに入っているのだが、仕事の関係や経済的なこともあり、積極的に会そのものの運営に係わることはしていない。手伝える範囲でのお手伝い、というのが基本的なスタンスである。
これまで書いてきたように「川柳」とは一読明快、寸鉄人を刺すようなものから、比喩・暗喩を土台とした詩性溢れるものまで、ものすごく幅の広い文芸である。
歴史的流れを見ると、江戸柳多留から狂句、新川柳、新興川柳と、判り易いものから判り難いものへ行くのが進化のように感じられるがそうではない。それぞれの持ち味が時代の流れに沿ってそれぞれに進化しているのだ。
出来るだけいろいろなジャンルを体験することで「川柳」を知りたいという欲求が私の中にある。

川柳界では、川柳の読者はほとんどが川柳の作者である。川柳を始めてみようとして句会に参加する多くの人達が感じる違和感がここにある。川柳の作者でない者を読者と想定した川柳、もしくはそのような作句姿勢を考えてみたい。
2004年11月


柳多留の序にある
「・・一句にて句意のわかり安きを挙て一帖となしぬなかんつく当世誹風の余情をむすへる秀吟・・」
という呉陵軒可有が記した文章は、現代でも川柳の基本的認識ではないだろうか。
新聞・雑誌・企業が募集するいわゆるマスコミ川柳等の読者はもちろん、川柳作句初心者もそのように認識しているだろう。
ところが、句会・吟社の川柳の中には、どうにもその認識で括れない作品が存在している。
例えば、哲学的であったり、観念的であったり、読者と作者の感情の共有が出来ない、事象の認識の共有が出来ない、などである。
句会・吟社川柳に十数年いると、その中で「当然判ってもらえる表現」というものが知らず知らずに身に付いている。

それがいいのかどうか。

「楽しめばいい」と言われればその通りなのだが・・
2004年11月


句会の中での「当然判ってもらえるだろう表現」が想定している読者は「選者」である。大勢の参加者の中の、たった一人に向けて句を発することが句会なのだろうか?
披講される句は参加者や全員が聞くのだから、最低でも参加者へ向けての発句でなければならない。そして、その結果は印刷物として発表されるのだから、より多くの人々の目に触れるのである。
「これはあの選者では取ってくれないな」や「これだったら取ってくれるだろう」という会話を句会場で聞くことがあるが、私には不思議でならない。選者に関係なく自分の着想を出すべきである。
しかし、長年句会を楽しんでいると、無意識にそういった方向の句作りをしてしまう。果ては、新聞・雑誌に投稿する場合にも傾向と対策的な事をしてしまう。一般の投稿者と句会人の違いは、自分の思いを伝えるために「読者」を想定しているか「選者」を想定しているかではないか。
2004年11月


出句対象を「読者」ではなく「選者」としている作者が選者になると、大抵披講時に「私の好みで取りました」と言う。

これでは「選」ではない。

他人の作品を自分の好みで並べる行為は「鑑賞」である。「選者」はどこまでも選者であって「読者」ではないのだ。こうなってしまうと句会はどんどん大喜利化してしまう。座芸に陥ってしまう。
選者心得などと偉そうな事を言うつもりは無いのだが、選者の方々は好き嫌いではなく、川柳として良いか悪いかで選考をしていただきたいと思う。
2004年11月


座芸に陥ると書いたが、句会がその一面を持っていることを否定するわけではない。その座がそのことを十分に認識していることを前提とはするが、座を楽しませる・沸かせる選者がいてもいい。
ただ、全くオープンな句会、大会では参加者によっては情報が足りずに不満が出ることを、選者を決定する吟社は認識しておくべきである。座を楽しませる・沸かせる選者とは、兼題とは別にその選者が持つ特色だ。判りやすく言えば「あの人は酒のことを書けば取る」や「動物を書けば取る」、「泥棒や刑務所の事を書けば取る」「お役所のことを取る」などである。
そしてそのことを座が認識し、且、選者も期待を裏切らないような良い句しか取らない。

ただ単に当て込んだ語戯は取らない。

こういう選者は本当に少ない。

本人が持つキャラクターでありエンターテイメントであるから、真似ようにも真似ることが出来ない。こういう背景を知らずに抜句結果のみで句会に参加していると、自分で自分の句を語戯に貶めることになってしまう。
2004年11月


◎共有する時事性

職場など、社会に比較して小さい人間集団を考えて欲しい。その中であれ、人間関係に悩んだり、問題が起きたりする。居酒屋で上司を肴に、ああだこうだとうだをあげた経験は多くの人が持っているだろう。

そんな時にその集団でしか通用しないが、「巧いことを言う」場面に遭遇することがある。
川柳の三要素として「穿ち」「おかし味」「軽味」ということを書いたが、居酒屋での会話の「巧いこと」には、この三要素が含まれていることが多い。その「巧いこと」が川柳の形を借りたとすれば、これはその集団が共有する時事性を土台にしたものだといえる。
「一句にて寸鉄を刺す」
といったイメージが川柳にはあり、世間ではそう思われているふしがある、というが、川柳界と世間の川柳の捉え方の差は、土台となる「共有する時事性」にあるのではないか。
2004年11


  「咆哮」 帆波
九十九折れパンダトレノが横を向き
RB26神の声に似て
インジェクター四本打ってある自信
ディズニーを抜ける光になりたくて



これらは「共有する時事性」を考えた時に私が作ったものである。川柳界はもとより世間でもほとんど理解されないと思う。但し、改造車に乗っている人々は十分に理解出来るものなのだ。
つまりこれは、居酒屋での会話の「巧いこと」のカーマニア版といっていい。
当然川柳とは呼べないものである。     

 ピラミッドの三角形を考えて欲しい。
底辺は広く面積も大きい。頂点に行くに従って面積はどんどん狭くなる。

川柳を詠むとして、底辺の部分で「共有される時事性」を基準にした場合と、
頂点に近い部分で「共有される時事性」を基準にした場合とでは、その句が理解され得る集合の大きさは、底辺を基準にした物の方が大きいことは一目瞭然である。

川柳という形態を利用した短詩は、どんな瞬間にも存在し得るのだが、出来るだけ多くの集団に共有される時事性を備えていないものは「川柳」として一般社会に認知され得ない。
そして時事川柳と呼ばれるものは、「多くの集団に共有されている時事性」の賞味期限が極端に短いのである。
2004年11


◎人間の本質への共感

理解される領域の、三角形の頂点に近い部分は、確かに一般的な事象ではないかもしれない。
しかしその中には、一見そのようであっても、人間なら誰でも持っている性質であったり、経験であったりする事がある。

心の奥に潜む自身の本質。

こんなことは私だけだろうと考えている、思い込んでいる性質。
そこを川柳の題材に出来れば、一読明快ではなくとも川柳として世間一般に受け入れられる作品が生まれるかもしれない。「人間の本質への共感」とでも表現してもよい。
古川柳はどちらかと言うと第三者的な視線で人間を捉えたものが多い。そこが作品の匿名性とあいまって、現代にも理解されやすく、親しみを持たれる理由でもあろうが、新川柳以降、一人称二人称の視線で人間を捉えることが求められ、川柳作品に深みとそれまでにない種のユーモアやペーソスを生み出してきた。
しかしその結果、それなりの素養がなければ、句を鑑賞し楽しむことが困難な表現も存在している。
そのことに悩む川柳家と、そのエリアに触れることの快感を楽しむ川柳家。
どちらがどうだと比較できるものではない。
どちらも川柳が好きなことには違いないからだ。


◎緊張感

自分の思いを何に対して訴えるのか、という部分で言うと、乱暴ではあるが、作者が「川柳」だと認識して詠まれたものは、たとえ俳人・川柳人が共に「俳句」と断じたとしても「川柳」になる。
俳句に関しては全くの素人の私が言うと御叱りを受けるだろうが、「人間」を追及するという点で「川柳」ほど「訴える」という思いが凄ましいものはないと思っている。
「川柳」にはタブーがないのだ。もちろん「低俗」で「卑猥」で「差別的」な表現を避けるということは、文芸という括りの常識であって、ここでいうタブーとは意味の違うものである。

川柳で時事を扱う瞬間に、胸の辺りにチリチリとした緊張を覚えることがある。
「はたして発表していいのだろうか」
「この題材を十七音で斬っていいのだろうか」
そういったスリルがある。
私のどこかに、お上という概念が棲み付いているだけなのかも知れないが。
2004年11


◎川柳と俳句

他人に「川柳をやっています」と話した時、「俳句とどう違うのですか」という質問をされることが多い。また、自分の句を紹介したときに「これは俳句ですか」と聞かれる事もある。
こういうことは私以外にも多くの川柳人が経験していると思うが、これをして世間の川柳に対する認識が低いと考えて良いものだろうか。

こういう場面で私は「俳句のことは良くわからないのですが、どういったものが俳句というのですか」と逆に問いたい衝動に駆られてしまう。
世間一般の答えはこうだ「俳句とは季語があって、五・七・五で作り、ヤとかカナとかの言葉を使うもの」
「なんとなく雅な、昔からある文芸ですね」
乱暴なのは「季語があるのが俳句で、無いのは川柳ですね」とか言われることもある。
俳句をされている方々にははなはだ失礼であるが、句を作らない、読まない世間の多くの人々にとって柳俳の別はどうでも良いことなのだ。
どちらかというと川柳のほうが俳句との比較をいうようだが、俳人、川柳人が悩むような意味での違いを世間は認識していないと思う。
2004年10

柳俳の差を言うと「俳句は学校で教えるが、川柳は教えない(教科書に載る載らない)」という話題が出ることがある。
しかし、俳句にしても、百人一首のように夏休みや冬休みに覚えさせられるようなことはまず無いし、副読本で季寄せを購入させるという話も聞いたことが無い。当然、歳時記が数十万部売れ続けているという話も聞かない。
松尾芭蕉や小林一茶の名前や代表的な句は覚えていても、その人となりについて深く教えることも無い。
ひどいのになると「芭蕉は隠密だったんだって」などとテレビ時代劇や時代小説のキャラが薀蓄として語られたりする。
結局は作句する側が「川柳」をまた「俳句」をどのようなものと認識し、感性と感覚と技術をもって、何を何に対して訴えるのか。
柳俳の違いはその部分に帰着していくのだと思う。
2004年10


◎感覚と感性

三角形の底辺、(底辺と言ってもレベルが低いと言う意味ではない)を土台とすることに物足りなさを感じ、そこから抜け出そうとする場合、最も安易なのは五・七・五そのものの形を崩すことである。
これは即、定型を外す・否定するというのではなく、七・七・五や八・九、九・八、呟きや、ト書きのように句のスタイルを変えていくことである。
私自身の下手さ加減を棚に上げて偉そうな事ばかり書いているが、このレベルでの句のスタイルを変えていくという手法は「巧いことを言う」という着想を、「巧い言い方」で補うというもので、暗合句がそんなに生まれない反面、単なる模倣・リサイクルに陥りやすい。言葉の使い方には、感覚と感性があって、私などは感覚だけでやっているようなもの。

大切なのは感性。

そこには正直な自分が存在しているはずだ。感性を磨く事が大切なのだろうが、私には今のところ、多作していく他にその見当すら付いていない。
2004年10


◎物足りなくなる作者

賞味期限が短いとはいえ、時事川柳は多くの人々に理解され支持される。これは共有される時事性が同時代性をも兼ね備えているからだ。尤もその「時代」のスパンはとても短いものであるが。
そして、作り手は「個」でありながら、作品は「公」に消費される事を前提に作られている。この点はマスコミ川柳と呼ばれているもの全体に通じる性格でもある。
しかし作句経験が長くなると、川柳家の中には、「個」をより前面に打ち出し、「公」に消費されるのではなく、鑑賞される事を求める作句衝動が沸き起こってくる。
作者個人が存在している領域を共有できる読者層を求めるといってもいい。
つまり三角形の底辺を土台とする事に物足りなさを感じていくのである。
2004年10月


◎現代川柳

現代川柳には、インターネットに例えれば、マウスの左クリックだけでポンポン情報を渡り歩くようなものではなく、右クリックをして一度自分のハードディスクにダウンロードして、オフラインで納得するまで鑑賞する。そんな性格を持つものが多い。
もちろん句会川柳とも違うし、広く一般の目に触れるマスコミ川柳とも違う。

川柳界は広いようで狭い。

その狭い中で先鋭化した表現が日夜生み出されている。それは競吟の先に存在するのだが、その先の部分が、どうも川柳界では弱いような気がしている。

つまり、相互鑑賞・相互批評である。
2004年10月


◎寸鉄を刺す?

選考時に句意に重きを置くのは当然のことであるが、
総合詩、柳誌の雑詠欄や同人欄には一瞥して意味の解らないような句が並んでいることが多い。
意味が解らないというのは、あくまでも世間一般を対象にしてのことであるが、川柳初心者もその中に入る。意味の解らないのは全部革新句だと思っている初心の方もおられるが、そんなことはない。
実際どの句も何度か読めば、初心者であってもおぼろげに訴えたいことが解るものである。
「一句にて寸鉄を刺す」
といったイメージがどうも川柳にはあるらしい。なくとも世間ではそう思われているふしがある。


                              
inserted by FC2 system