川柳について あれこれ VOL7

◎歌は世につれ、世は歌につれ
「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉があるが、まったくうまく言ったものだと思う。昔の歌が有線などから流れてくると、その時代の自分に、ふと戻ったような気がすることさえある。

都はるみの 「北の宿から」が流れてきたとき、昔友人とやったゲームのことを思い出した。そのゲームとは、 「水戸黄門」のオープニングの歌の節で、他の歌詞を歌うというくだらないものであった。ところがこれが結構、どんな歌でも合う。特に演歌はほとんどが普通に歌えてしまう。
考えれば当たり前のことで、昔の歌はそのほとんどが、七五調(三・四音または、四・三音に続く五音、六音)で作られていたからだ。
「水戸黄門」の歌詞は、「四音・四音・五音」で構成されているが、長音、促音を数えれば、「五音・七音・五音」のように読める。
すなわち、このメロディーは「六音・八音・六音」までくらいの歌詞ならば、そんなに早口にならなくても、節に合わせて歌うことができる。
勝手な結論だが、昔は「音字数とオタマジャクシの組み合わせ」に暗黙のルールのようなものがあって、作り手、聞き手共に、そのリズムというか調子をもって、意味を伝え、意味を咀嚼していたのではないだろうか。
2006年06月


「音字数とオタマジャクシの組み合わせに暗黙のルールがある」と書いたが、「水戸黄門ゲーム」に飽きた頃、衝撃的なグループが現れた。「サザンオールスターズ」である。
そのデビュー曲 「勝手にシンドバッド」は七・五調ではなく、韻を踏むというか、似た旋律の繰り返しでありながら、強調される音は「no」「mo」であったりと、とても「水戸黄門ゲーム」ができる歌ではなかった。
オマケに物凄く早口で、最初に聞いたときは日本語に聞こえず、発音記号の繰り返しによって心地よい楽曲を目指しているのか?という印象すら持った。
それからどんどん他の歌手も、桑田圭祐ばりに「r」を矢鱈に挟むような歌い方になっていった。
「いとしのエリー」
「匂艶 THE NIGHT CLUB」
「愛の言霊 〜Spiritual Message」
など彼らの歌には、七・五音に拘らない音字数の繰り返しと、強調される音(母音)の組み合わせから成り立つものが多い。


七・五音に拘らない音字数の繰り返しと、強調される音(母音)の組み合わせから成り立つ流行歌は、サザンオールスターズ以降目立って増えてきたように思う。やがて単語すら自由な区切り方で歌われるようになってくる。宇多田ヒカルが新鮮に聞こえたのは記憶に新しい。
「ナ ナカイメノベ ルデジュワキ ヲト ッタキミ」
「ク チビルカラシ ゼントコボ レオチ ル メ ロディ」
など、区切られた部分で表記してみると何を言っているのか理解できないことが多い。
考え方として飛躍しすぎるかもしれないが、日本語の「詩歌・唄」を伝達する手法として採られてきた、音字数と拍の調子に変化がおきているのではないだろうか。以前、五・七・五の十七音は、作者の思いを伝えると同時に読者がその思いを読み取るための手法であると書いたが 、七五調に拘らない音の区切り、拍の位置によって思いを伝える手法が確立し一般化しているのではないだろうか。

2006年06月


「詩歌・唄」を用いて、作者が思いを伝える技術、読み手が作者の意図を理解する手段としての「七・五調」に変わる手法・技術が「音楽・歌謡曲」の世界から発生し、浸透し、一般化してきているのではないかということを書いたが、では、このことでどのような変化がおきているのだろうか。
まず考えられるのは、「七・五調」では作者の意図を深く読み取ることができない、「詩歌・唄」を黙読したときに頭の中に発生する「音字数と調子」が従来からある「七・五調」にならない、そのような「世代・読者層」が存在しているのではないかということである。
かつては、寄席・講談、歌謡曲など、人々のレジャー・生活の中に「七・五調」が自然に存在していた。そのような環境がなくなってきた今、音字と調子について、「川柳(川柳界)」はどう対応し何を考えるべきなのだろうか。
2006年06月


「詩歌・唄・楽曲」の「音字と調子の変化」に対して「川柳(川柳界)」はどのようなアプローチを試みてきたのであろうか。いや、そもそもこのような事象に関して無関心でいたのではないか。
定型の「音字数」に拘る一方で、披講における「音としての川柳」に対して無頓着ではなかったか。
どんな句でも「五・七・五」で区切って披講する選者。
披講時になって、句箋の字が読めない選者。
自分の句さえ抜ければよく、会場にいる参加者に句意が伝わったかどうかに無関心な作者。
世の中から「七・五調」で表現されるものが少なくなっているかもしれない現状に対して、「音としての川柳」に思いを寄せず、句意よりも句体が優先するのでは、世の中に存在する「川柳」という認識に置いていかれるだけではないだろうか。
私は「川柳」という概念と言葉は時代を超えて強かに生き残っていくと思うと同時に、「川柳界」と呼ばれる世界の行く末を案じないではいられない。

2006年06月

◎風流
傘寿をとうに超えておられるご婦人とお話をしていて、私が川柳を趣味にしていることを申し上げたとき、
「それは風流なご趣味をお持ちで・・」
と仰った。
「風流」・・
軽く打ちのめされる感じがした。

自分が作句するときのものの見方は、あまり「風流」じゃない。
みやびやかで、俗でないというと「川柳」のイメージと少し違って見えるが、先人から伝わるよい流儀、と考えると、川柳は風流だともいえる。自分が荒れていると、句も荒れてしまう。そこに「風流」という概念があれば、荒れるに任せることなく、句のスタイルを維持できるのかもしれない。
いい宿題を頂いた気がする
2006年08月


◎隠語性
昨日の日経朝刊(2006年11月26日)の詩歌・教養欄「隠語の力、外気にさらして」という坪内稔典氏の文章が面白い。仁平勝という方の評論集「俳句の射程」 の言葉を紹介しながら、俳句の隠語性を問うている。
新聞・雑誌広告を見ていると「俳句句集」というものは結構出版されている。にもかかわらず、一般読者にそんなに売れていないのは、その隠語性が不特定多数の読者に通じないからだ仁平氏は言う。
高齢化がますます進んでいくにつれ、老後の趣味として「俳句」を選択する人は増えるだろう。
やったことのない人は、風流で知的で粋な趣味だと思っていても、いざその世界に入り込むと、一般の社会では使わない言語表現や、仲間内から生まれた表現を土台にした新しい表現が求められていく。
またそういったものを愛でる傾向が生まれる。
仁平氏はこれを「外部の世界では通用しない言葉の美学」と表現する。
その上で彼らは「評論を書く場合に、俳句を作らない読者を想定する」ことの重要性を言う。隠語性は中に閉じこもってしまうと干からびて生気を失うから、外気にさらすことが必要だと説く。

読後、川柳にも通じるなと思った。
句会では当たり前にやっていることも、参加したことのない人にとって見れば「?」となることが多い。少なくとも「川柳」は「俳句」より大衆性を有していると思うし、句を読んだことのない人に対する親和性も持っている。だからこそ「句会の言葉」「柳界の言葉」からの脱却や、その焼き直しや表現を土台にした変化が、一般読者に受け入れられるのかどうかを、作句の指針に加えていくべきだと感じている。
2006年11月


◎川柳の役割

いい川柳ってどういうものを指すのだろう?読んだ人が不愉快になるものは、まず駄目だろうな・・
と、考えてふと思った。
不愉快や愉快という感情は、みんな同じではない。
そもそも表現内容以前に、扱う事柄の段階で不愉快だと感じ取られれば、それはそこで終わってしまう。だからといって箴言的で性善説の塊のような作品に魅力があるのだろうか?
「川柳マガジン」が「オール川柳」だったころ

老人は死んでください国のため  可静

という作品に対して、批判的な意見が多かった。それも川柳界においてだ。
この作品に対するアンケートが、当時のオール川柳誌上で行われたが、
「アイロニーの効いたいい作品であり、選者の選句眼が素晴らしい」という意味のことを書いていた私は、ある先輩柳人に句会場でずいぶん叱られたのを覚えている。私は、当時も今もこの作品の逆説的批判精神は素晴らしいと思っている。しかし、この作品は駄目だと仰る方は今でもおられる。
「川柳の役割」という事を書いたが、川柳はもっと、いや「川柳」だからこそ、もっと社会に対する視線が必要なのではないだろうか。
このところ、政治家の発言の揚げ足取りが盛んだが、政治家が言ったら問題になってしまう事柄の中には、「それを言ったらお仕舞いだが、世の中はそうじゃないか」というものも存在している。
そういったものにスポットライトを当てるのも「川柳の役割」の一つではないかと思う。

2007年02月


◎川柳は難しい
改めて言う事ではないのだが、川柳は難しい。このところ「そういえばそうだな」という句を沢山見かける。当たり前のことを見つけ出して句にすると言う手法は、初めて見かけた時は新鮮だったのだが、「そういわれてみれば、そうだな」ではない「そういえばそうだな」では、もう感激することがなくなってしまった。
「だから何?」という突込みを入れたくなる句も同じで、初めの頃は目から鱗状態だったのだが、最近はなんとも思わなくなってきた。結局、平易な言葉で、表現されている事柄そのものの中から、他人や自分自身に重ね合わせられるものを見出せるような作品には敵わないのかもしれない。
200704


◎前句附と川柳

前句附と川柳について、この6月に川マガ東京句会で使用したテキストをご紹介します。
ちょっとした頭の体操も入っていますので、チャレンジしてみてください。


※前句附と川柳 
川柳マガジン東京句会六月  松橋帆波

川柳が前句附から起こったことはご存知だと思います。
前句附を沢山募集して興行する、いわゆる「万句合」
そして、その万句合の中でも人気のあったのが、柄井川柳の選出する「川柳点」でした。
後に発行される柳多留は、それら万句合の刷り物の中から、「一句でも意味の通じるもの」を抜き出してまとめたものです。
この「一句でも意味が通じる」という点を考えて見ますと、現在一般に、古川柳として理解されている「柳多留」は、「前句附」として作られた作品であり、現在私たちが楽しんでいる「川柳」とは、作品に対する前提が違うことに気が付きます。もっとも、柳多留が流行るにつれ柳多留に掲載されることを目的に「一句で意味の通じる作品」を万句合に投稿する人たちが増えたであろうと推測はできますが、これは専門の研究者の方々の今後の成果を待ちたいと思います。

さて、私たちは句会で「課題吟」を楽しんでいます。現代の課題吟は万句合と違って、「一句で意味の通じること」を前提に作られているはずです。しかし実際には、題があってはじめてその評価が下される作品が少なくありません。川柳句会はどちらかといえば閉じた系でありますから、回を重ねるにつれ、参加者の中だけで理解される暗黙の表現形態が生まれ、育ちやすくなります。

例えば「あらあら」という課題に対して

A テレビほど大盛りじゃないラーメン屋

B サンプルと似ても似つかぬオムライス

という作品が選ばれたとします。

AとBを見比べてみてください。
Aの作品は「あらあら」という課題がなくても、
「チャーシューが大きいとテレビで取り上げられていたのに、実際はそれほどでもない」
「テレビで見た物凄い大盛の定食屋だと聞いて行ったのだけれど、そこまでじゃなかった」
など、句で表現されている「ラーメン屋さんで大盛り」という状況以外の事柄まで読み手が創造を膨らませることができます。
では、Bはどうでしょう。
「どんなオムライスだろう?」
という読み手の想像は、課題の「あらあら」があって初めて
「タマゴがうまく巻けなくて、具がはみ出しているのかしら?」
「サンプルはきれいな黄色なのに、ところどころ焦げがあるのかしら?」
というふうになります。
つまり、Bの作品は「前句附」なのです。

もう一つ例を挙げましょう

世の中はそういう風にできている

という作品。
これだけではどう理解していいか判りませんね。
この句の課題は「気の弱いこと 気の弱いこと」です。
課題を聞くと、句の意味が広がっていきますね。これが前句附です。

私たちが楽しんでいるのは川柳です。前句附という断りがない限り「川柳=一句で意味の通じる」作品を目指すことが大切です。

この川柳と前句附の違いに対する理解は、作句の推敲時に役立てることができます。
自分の作品に対して、元になった課題とは別の題が付くかどうか検討してみるのです。
こうすることで作品と課題との距離感や、一句で成り立つ作品なのかどうかが判ります。
また、過去に作られた作品の「課題」を考えてみることで、作句時とは違った頭の使い方をすることになり、着想のトレーニングに役立ちます。
試しに、いくつかの句をご用意しましたので、それぞれの「課題」を考えて見ましょう。


例として  
 NHKで社命を連呼され


という句の課題を考えます。

例えば「不祥事」や「運の良いこと 運の良いこと」などです。
正解はありません。色々な題を考えてみてください。

2007年08月


◎作句のタブー

月刊「短歌」(角川学芸出版)10月号の特集に「孫歌はつくるべからずと言われるが 孫をどう詠むか」というものが掲載されている。早速書店で手に入れ、読んでみることにした。川柳でも「孫句」は作るなといわれる事が多いので、この特集には少なからず驚いた。他の文芸でも、そういうことがあるのようだ。
孫句はだいたい、似たような家族吟というか、孫は可愛いという着想に終始してしまうので、表現が陳腐になるというのがその理由だと言われている。
しかし現実に、短詩文芸を趣味として楽しんでいて、孫が生まれた事を素直に句に詠んではいけないというのはおかしな話である。
つまりは「句会では抜けない」という事が、全体を覆うタブーとなっているのではないだろうか。「し止め」しかり「楽屋吟」しかり、文語体を使う事や、音字数に対する拘りも同じことだと考える。
句体や詠み込みの可否をルールとして設けている句会なら、みな同じ条件で楽しむためのものであるから理解も出来るが、まるで都市伝説のように、どこの句会でも同じように「これは駄目です」というのは、それに関する理論的裏づけを参加者が共有していない限り、あまり意味のあることだとは思えない。

初心の頃、句会は句に出会う場だと思っていた。
事実、思ってもいなかった発想に出会ったり、表現の妙に感心したりする事があった。ところが最近はそういう驚きに出会うことが少なくなってしまった。
むしろ句会ではそういうものに出会う事ができないでいる。
いくつか読ませて頂いている柳誌の雑詠欄には、まだそうした驚きが残っている。そういった作品は、もっと外界でも評価されていいと思う。最近、読者を拒絶するような表現を見かける。とても新鮮な驚きがある。読まれること、想いを見透かされることを拒絶するような言葉の組み合わせ。しかしながら、活字として句はそこに存在しているのだ。
生半可な気持ちで、一行を読み流す事を許さない句姿。
是非はともかく、
常に前へ行こうとする作者、妥協を拒否する作者、溢れ出る言葉を抑えようとしない作者、が存在する川柳。
そんな作品が音になる句会を、川柳の未来に求めたいと思う。
inserted by FC2 system