川柳の技術的なことあれこれ VOL 5

◎課題の解釈

「和菓子」という題に対してどう考えるかということを先日書いたが、
句会で出される題には、一般の新聞雑誌での募集と違うルールというか、暗黙の了解の存在する場合がある。

愛吟コンテストのように
「父」「母」や「一」「ニ」のように広く解釈できる題では
(表現自由)(字結び可)(字結び)
のような断り書きのある事が多い。

何もない場合はあくまで「父」は「父」であり
「父兄」や「父島」をテーマに、主題としては作らない。
「一」でも「一本気」や「一網打尽」などではなく数としてひとつのものを考える。
(字結び可)とあれば、このような熟語もOKという事になり、
(字結び)では必ずその文字が入った言葉を使用する事とする。
また、字結びでは句の内容が与えられた「題」にそぐわなくてもいい。
逆にいえば、断り書きがない場合は「題」にそぐわなければならない。

これは、作句が言葉遊び、もじりにならないためのルールである。

但し、多くの出席者が見込まれる大会などでは、「父」や「母」という課題の場合相打ちの句が多く見られる可能性が高い。
当然、過去にも多くの句が発表されているから、無意識に焼き直しの句が生まれる事も否定できない。
そこで断り書きを付け、着想・表現・仕立ての幅を設けるようになる。

しかし、川柳であるからには、句の意味とは別に「一本気」「一網打尽」という、題の文字を読み込んだ言葉を見つけた、という事が評価の対象であってはならない。
この判断が選者には求められる。
2005年3月

◎多作とのバランス

隔月で柳誌の時事川柳の選考をさせていただいているが、今回の集句はやはり、ライブドアとフジテレビの事に関するものが多い。
次に海賊・西武前会長、と並ぶ。
締め切りの関係上、九州地方を襲った地震の句は無かった。

10年前、阪神大震災、オウム真理教の地下鉄サリン事件があったときも、時事川柳の集句はほとんどがそれらを詠んだものであった。
選考する側にすると、こういう場合は本当に辛い。
その出来事に対する作者の思いを汲んであげたいと思う反面、世の中はそのことだけではなかったと、振り返った時に時事として残り、思い出せるような句を選ぶべきだ、とも思ってしまう。
また、同想句をその仕立て、技術だけで評価してしまう事の怖さを感じたりもする。

などと書いている自分も、このところそのことばかりの句を作っている。
雑詠であれ、題詠であれ句会で没になったものを見てみると酷いものだ。それに事象に入り込んでいくと、RB26やパンダトレノじゃないけれど、 時事性を共有している部分に世間とのずれが出てきてしまう。

最近、このずれに関して「多作とのバランス」をふと思う。
作る時間と、ずれを認識し修正する時間をもっと持つべきかなと考えている。
2005年4月


「多作とのバランス」を考え、振り返った時に、悪い意味での「作り過ぎ」の自分に気付く。
特に句会でそれを感じる。
「模倣」と「焼き直し」だ。

川柳は野球とは違うのだが、抜けた事をヒットと勘定し、打率のような認識を持ってしまう自分がいる。
「二割から三割ならいいだろう」って、何がいいんだ?
「天」に抜けたらホームランか?

多作は素振りと同じでフォームを作る。
ただ、そのフォームは率を上げるためのものではないはずだ。

課題に対して相当数の句を作った時点で句会は終わっている、と以前書いたが、それでも句会へ行くのは何故か?
投句でも参加するのは何故か?
句を作りたい、句で表現したいという衝動を形にするための多作ではないのか。

単純に楽しんでいると川柳ほど面白いものはないと思っている。
しかし、それに飽き足らなくなった時、川柳ほど奥が深く難しいものはないと、改めて感じる。
2005年4月


◎二重投句・二次使用句

初心者に川柳の歴史や、作句の手ほどきをしたり、吟行といって、街に出て(ちょっとした小旅行を企画する場合もある)見るもの聞くものから句を作って楽しむ事などが行なわれている。
何回かの講義が終われば、参加者は新聞や雑誌に投稿したり、講師の先生方が主催されている川柳会へ参加したり、所属したりして、川柳の扉を開くことになる。

さて、この教室で学んでいる中で出来た句を、卒業後、句会に投稿することは是なのか非なのか、どうだろうか?

どんな会でも二重投稿は禁止であるから、たとえ勉強会でも一度評価の定まった句は出すべきではない。
という考えと、
勉強会は句会とは別、競吟ではないし、発表句が広く世間に知られることはないのだから、もう一度使ってもいい。
という考えがある。
私の感じでは、後者の考えを取っている場合が多いように見える。

私としては、仮に私が勉強会の講師であったとして、そこで評価した句を別の句会で、私の選に出句された場合、同じ作者の出句であったとしても抜くことはないだろう。
たとえ秀句であれ、競吟の場では既視感も取り捨ての要因になるからだ。
2005年4月


◎見たことあるよぉ〜な句

“既視感も取り捨ての要因になる”と書いたが、課題によっては集句のほとんどに既視感を抱く場合がある。
どんな場合でも抜きん出た句というものは存在するので、上位の選出はいいとしても、選出数に規定がある以上、規定以下の句数で披講を終わらせるわけにはいかない。
これも選考の難しい一面である。

既視感といっても幅があるので、そこから厳密に没句を探す作業になる。
つまり、着想としての既視と、使われている単語まで同じという既視では、当然後者を捨てることになる。

何であれ、句会で抜けたいのなら、この逆をいけばいいのだ。
その選者の過去の選出句。
その句会の過去の選出句。
類題別高点句集などから、同じ課題での選出句。
をチエックし、そこにない発想で句を仕立てる。
これでたいがい没は無くなる。

さて、この行為を「川柳」と呼ぶかどうか?「作句」と呼ぶかどうか?
2005年4月

◎だろう川柳

自動車教習所で、おそらくどこの地域でも教えられていると思うが、「だろう運転はするな」と教官から言われる。

「大丈夫だろう」
「飛び出してこないだろう」
「止まってくれるだろう」
のように「〜だろう」という判断でハンドルを持ってはいけないのである。
もちろん危険防止、事故防止のためである。

この「だろう〜」は他の場所でも使われている。
進学塾や工事現場、工場の作業や金融の世界などなど・・。
だいたい正確を期する場で用いられる事が多い。

さて、私は「だろう川柳」というものを考えている。
句会や柳誌で「抜けるだろう」というものではなく、人間(もしくは自分)を観察した時に、その瞬間の切り取りを発見とすれば、それを土台にその人間(自分)が、「こういう事もするだろう」「もし〜だったらこうだろう」という方法で川柳を作る事だ。

自分が(他人が)大金持ちだったら、
自分が女性(男性)だったら、
自分(他人が)が政治家だったら、
もっと突っ込んで、年齢・性別・職業・家庭環境etc・・

自分が見たり、聞いたり、会ったりした他人から架空の人物像を造りだし、その人間の行動から川柳を生む。
これ、どうだろう?
2005年4月

「だろう川柳」で先ず考えられるのは、自分とは性別を異にした人間を考える事だ。
私ならば女性である。人物設定は色々あるが、たとえば、20代のOLでもいいし、30代の主婦でもいい。
なにもそういう方々と無理にお付き合いをする必要はない。
要するに私が考える、彼女等の生活や人生の考え方を通して、私が存在している現実の社会を見るのだ。それを句にしてみる。

ここまでは頭の中での作業だが、次に出来あがった句を現実の存在である私が読んで、批評するわけだ。
つまり、空想の人物が感じた世の中を、現実存在の私が見、そこで感じる違和感や、同一性をもって、より現実社会の観察を深めようというわけだ。
2005年4月


「だろう川柳」を考え付いたのは、作句に詰まったというからではない。
川柳が世の中に受け入れられるためには、句会での作り方では無理じゃないのかなと思ったからだ。

無意識に出来あがっていた「抜ける」ための十七音字のフォームが、世間が考えている「川柳」とどんどんずれていくような気がし始め、
尚且つ世間のいう「川柳」が駄洒落や語呂合わせまでも含んだ「一読明快」ならぬ「一読一笑」的な非常に寿命の短い、一瞬のギャグ・瞬間芸のたぐいに見え、

同じものを何度聞いても(披講が上手いという条件もあるが)面白い、味があるという、文芸というか芸(Amazing skillとでも表現しようか)がどちらからも薄くなってきているのではないかと感じたのだ。

江戸期の三人称へ向けた視線から、新川柳の一人称、つまり自身の内面へと向かった視線が、混じり合わないというのは勿体無い気がする。

「一読一笑」「一抜一価値」でなく、現代において長い時間、より広い世代の人口に上る川柳のあり方を考えてみたい。
2005年4月


◎時事川柳の限界点

世間のスタンスに沿って時事を詠む事はた易い。
が、そのままではその上の句境へ行く事は出来ない。
いい句だなというのは、相反するレッテルを貼られた対立する事象を、そのままそっくり新しい視点で取り込んでいるものをいう。

マスメディアからの報道はあくまで、大衆が判りやすいだろうと、メディア側が判断した形で流されてくる。
だから、興味を持って知れば知るほど微妙な齟齬が出てくる。
世間が理解しているレッテルに違和感が生まれる。

だからといってそれを土台に作句されたものが、必ずしもその事柄に対する時事性を世の中と共有するとはいえない。
時事川柳とそうでないものとの差がここにある。
時事川柳の表現の限界点と言ってもいい。

人間は誰しも、社会の事象から刺激を受け人生を積み重ねている。
刺激の種類、強弱、人生のかたち。
一人として同じ人間が存在しないのは同じ経験を、同じ環境で、同じ感情の下に受けないからだ。

だから句が存在する。
そういった違う個々人が集まって社会があり、国があり、世界がある。
時事川柳は個人から発して、社会という集団の意識を認識しながら、世界を詠むものだともいえる。

安直にその時々のレッテルに乗りかかって詠むだけでは勿体無いと思う。
2005年4月

◎シニカルと切なさと
最近、句会や投稿川柳とは別に、柳誌の雑詠欄やネット上に書かれているものの中に新しいというか、面白い傾向のものが目に付くようになった。

作者本人の感情をストレートに表現した作品である。

ちょっとずれると単なる呟きや一行誌になってしまうのだが、
その中に、「切なさ」と「シニカルさ」を共有している作品がある。
その大半が女性の作品である。

「女性が入ってきて句会が詰まらなくなった」という声を聞く事がある。

競吟の世界に現在ほど女性がいた時代はない。
それ故に模倣であったり、穿ちがなかったり、お上品な句が多いのはある程度やむをえないと考えている。
そう思うと、競吟の心得を教えてこなかった方にも問題があるのではと思う。
逆に詰まらなくしたのは男性の方かもしれないのだ。

競吟がベースになっている男性の句には「シニカルさ」はあっても「切なさ」がない。
女性の句にはその「切なさ」がある。

男女平等の時代といっても、それは言葉だけで、まだまだ女性は社会の中で男性と同じように生きていく事は難しい。
少子化の問題一つとっても、それを議論する政治の舞台に女性が少ないし、
これから子供を生もうとしている若い女性がその議論の場に過半数以上いるなんて事もない。

女性の句が持つ「切なさ」の全てが、社会の男女差からきているとはいえないだろうが、大きなウェイトをしめているだろうと私は感じている。

それをベースにした「切なさ」と「シニカルさ」のある川柳。ちょっと楽しみなのだ。
2005年4月


◎川柳の読み方、読まれ方

コンピュータの世界が考えられているほど進歩していないと書いたが、
解りやすくいえば、しょっちゅう使っている人とそうでない人との間に開きがあり過ぎるという事だ。

誤解のないように言うが、どちらが優れているという論ではない。

ほとんどの時間、川柳作句の事を考えていると、コンピュータの現状と川柳界が似ているように思えてくる。

ある一句があった時、一般には
「全く理解できない」
「面白くない」
「そのまんまじゃないか」
「川柳は何でもあり?」
という感想を持たれる場合がある。

ところが何年も句会や柳誌で川柳に接していると
「これは面白い」
という認識を持つ事がある。

拙句を例とするが、

妻の留守卵を二つ焼いてみる 帆波

一般的認識からすれば
「だからどうした」
「なぜ卵が2個でないと行けないのか」
「だったら茹でたっていいじゃない」
となるが、

川柳鑑賞としてみれば
「妻が留守」という状況、
いつもは一個だけ焼くのだろうかという推測、
朝なのか昼なのか夜なのか、
それらからわざわざ二つ焼くという作者の意識を読もうとする。

コンピュータの場合と同じく、どちらが優れているという論ではない。

しょっちゅうやっているからそういう物の見方をするのであって、
世間一般は、そのような読み方、楽しみ方をあまりしない、ということである。

さて、気が付かれた方もおられるかもしれないが、
この状況を上手く利用すれば、川柳界では没句が少なくなる。

だからそういう作句はしたくない。避けたい。

そうしてまた、泥沼にはまってしまう。

作句をすればするほど、是としない作句法がどんどん見つかってくるという不自由さも川柳の面白さだと思う。
2005年5月


◎文台

句会では自分の句が読み上げられたら大きな声で呼名をする。

その呼名を選者の隣にいる文台係が大きな声で繰り返し、採点係がもう一度繰り返しながら点数をつけていく
(出席表に正の字を書いていく場合が多い)

通常の例会ではほとんどの会員が顔見知りであるから、文台係にそんなに負担は掛からない。

これがオープンな会や大会になるとそうはいかなくなる。

そこまで気を配ってくれる選者ならいいのだが、披講のリズムは選者それぞれに違っているし、その選者が所属している吟社によっても違ってくる。

丸々選者のリズムで披講を続けていくと記録係が間に合わなくなったり間違えたりすることになりかねない。

そこで文台係が呼命を繰り返すタイミングをもって、披講のリズムを作っていくことになる。

早い選者なら、少し間を空けてゆっくり大きな声で呼名をし、
遅い選者なら少し早めに呼名をしていく。

だいたい秀句の披講が終わる頃には、文台のリズムに選者の方が合せてくれるようになる。

欲を言えば、文台係の投稿に関しては、他の会員が代返するのが望ましい。
そうすることで、披講、呼名、文台、記録のリズムが一定に保たれるからである。
2005年5月

◎「あるある」と川柳

矛盾・衝突の列挙と書いたが、
柳誌の雑詠でよく見かけるのが、日常のちょっとした事への違和感を単純に書き起こした作品である。

判りやすい例で言うと、
フライドチキンを買ってきて、どうも肢や手羽が多いような気がすることがある。
ちゃんと一羽の鶏になるのだろうか?
それとも専用に肢の多い鶏でも開発されたのであろうか?
という違和感。

これをそのまま句にまとめあげる。

読者はそれをみて「なるほど言われてみれば・・」と思うかもしれない。

さて、これは川柳でいう「発見」「見つけ」だろうか?

夕飯時にカレーの匂いがしない街。

これも都会ではなるほどとなるかもしれない。
しかし、それだけだ。

作者がそこで感じた事を「言い尽くさないで広げる」という川柳の手法を使って、読者が作者と同じ感情・瞬間を共有できるのかどうか。

川柳の泥沼に浸かっている者同士で理解し合える川柳鑑賞法の外に、
共有させられるだけの言葉が置かれているのかどうか。

作者を超えて、時間を超えて句が存在するためには、どこに向かって句を作るのか、
もっと言えば「選者を通してどこに向かって」句を作ろうとしているのか。

それがないと川柳は語戯への階段を駆け下りていくような気がしてならない。
2005年5月


◎川柳を詠むこと

批判精神が川柳の一側面だとすれば、それによって共感を得るためには庶民の味方であり、権力の敵であればいい。

これは単純な理屈だ。

けれどもこの場合に間違ってはならないのが、川柳を詠むことが目的であり、その結果共感を得るのであって、共感を得ようとするために川柳を利用するのではないという点だ。

福祉川柳事件 は正にこの取り違えから起こったのだろうと思う。

共感を得ようとする相手が、社会や不特定多数の他人ではなく、その狭い世界の不平不満の解消の道具として川柳を利用する。

現在でも、土匪吟というジャンルで親しい仲間内だけで掛け合いのように楽しむ事はあるが、決して公の作品として発表されるものではない。

川柳自ら川柳を誤解されるような事を発してはいけないと思う。
2005年5月

◎川柳の神様

おかしな表現になるが、時々「川柳の神様」なるものがいるような気がする。

ものすごく悩んで作句しているときに、捻くり回している着想とは全く別の句がすーっと出来あがった形で頭の中から湧いてくる事がある。

その句はまず句会で抜ける。

よどみなくすーっと読める句は得てして、先人の句か、どこかで聞いた句、過去の自分の句、である事が多いので、
チェックをしてから句箋に置くようにしているが、そうやって湧いてきた句で過去の句であったことはほとんどない。

「もういいかげんに寝ろ」と川柳の神様が私にサービスをしてくれているかも知れない。

川柳人はよく「枕元に紙と鉛筆」というが、実際夢の中で作った句を飛び起きてメモした事もある。

但し、私の場合、夢の中で作った句の抜句率は余りよくないのだが・・
2005年6月

◎筆記用具

外出時に筆記用具がなくて慌てる事がある。

私の部屋は、そうしたキオスクのメモとペンが散乱している。

一度ボイスレコーダーを利用しようと考えた事もあったが、披講の練習や、句会の録音には重宝でも、
ふと思いついた句を録音するのはちょっと抵抗があって止めてしまった。

車の運転中などに何度が使ったが、信号待ちまでに肝心の句が霧散してしまう。

頭の中で繰り返しているのも危ないし、そういう時に限って二句、三句と浮かんでくる。

まぁ、そんな流れの中でも忘れてしまうような句は本当は大した句ではないのだが、何だか損をしたような気がする。

やはりメモへの走り書きが一番効率がよいようだ。

最近の悩みは、パソコンに打ち込む事が多くなったので、手書きの場合も横書きになってしまう事だ。
だから、句箋に向かう時に妙な違和感を感じる。

その分以前より声に出して推敲する事が増えたような気がしている。
2005年6月


◎バイオリズム

雑感で毎日五句作っているが、正直言って無理やりに作っているときもある。

多作でいうと過去に、一年でどれだけ作れるだろうかと、毎日五十句を目標にチャレンジしたことがある。

結果は1万7千句を少し超えたほどで、平均すると一日47句ほどであったが、この時に気がついたことがあった。

バイオリズムという言葉があるが、作句にもそういうリズムがあるのだ。

月に五日から六日は全くといっていいほど作れない。
逆に月に四日ほどおかしくなったんじゃないかという位、句が浮かんで来るときがある。酷いときには夜眠れないほど浮かんでくる。

句として良い悪いではなく、それだけ異なった着想が湧き上がってくるのだ。

ならば、その時期に題詠に取り掛かればいいのではと思うのだが、そういう時は題詠ができない。
集中力というよりも注意力が散漫になっているので、見たもの聞いたもの感じたものをすべて句にしようとしてしまい、与えられたテーマ、課題に入り込めない。

まったく作れない時期の句は、無理に搾り出すからだろう、一定のパターン、視野の中で作られているものが多いように感じる。

むしろそんなときのほうが題詠に集中して取り組めている。

題詠も雑詠も同じ句風を帯びているのが理想なのだろうが、なかなかそこまで行けないでいる。
2005年6月


◎自分の字

日常的にキーボードで横書きすることが増えたために、
句箋に句を書くときになんだか絵を書いているような錯覚に陥ることがある。

変なふうに文字の場所が気になって仕方がなくなり、何度も同じ句を消しては書きしてしまう。

あまりに非効率なので、先日は9mmと7mmのシャープペンをそれぞれ二種類、句箋ごとに持ち替えて変化をつけてみた。

筆跡を変えるわけではなく、線の太さが違うだけで新鮮な気持ちになり、字の配置うんぬんにこだわらなくなった。

本当はそういう事にも気を配って句箋を書くべきなのだが・・。
2005年6月

◎作句の敵

私は句箋に句を書く場合、口の中で転がしながら書くようにしている。

だから五・七・五できちんと区切って書くとは限らない。

自分が読む音と同じように呼んでもらえるような「間」を空けて書いていく。

ところがそれを違うリズムで披講されると、瞬間、呼名が遅れてしまう。
自分の句に聞こえないのだ。

これは、句のスタイルにおいても起こる。どうにも締め切りが迫って、納得がいかないまま出してしまった句が抜ける場合がそれだ。
「自分ならこんな作り方はしないなぁ」などと、披講を聞きながら思ってしまう。ところが自分が出した句だ。

こんなときの呼命は本当に恥ずかしい。

聞いているほかの人に「いつもの帆波の句と違うなぁ」と思われるのがたまらない。

時事川柳はどちらかというと、いろんな方向からものを見るので、自分の平常の視点と違うものを作ることがあるが、それでも仕立て方には自分なりの拘りを持とうとする。
だから雑詠や題詠で、その拘りをはずしてしまうと句であって自分の句でないものが生まれてしまう。

多作の一番辛いところは、
「作らなければならない」と思った時点でその拘りを外そうとする自分と向き合ってしまうことだ。

今のところ私の一番の敵である。
2005年6月


◎作句の難しさ

さりげない表現で、日常的に使う言葉で、十七音字の奥にもっと深い意味を持たせたい。

私が目標にしている作句とは、そういったものだ。
しかし、これは本当に難しい。

数を作れば作るほど遠退いていくように感じられるし、
もっと深い意味を持たせるために、意外性のある言葉を置こうとする誘惑に駆られ、次の日の朝になって読んでみると、なんの事やら判らない句になっていたりする。

人間、人間と考えているうちに、頭の中だけにある人間像が一人歩きするし、
自分を棚に上げておいて、偉そうな視線で句を繰っている。

先人の句を読み返すたびに、ため息が出る。
そしてまた、川柳界とは違う場所での句を読んで、ため息が出る。

みな素直で、たのしい句が多い。

月に数度、こうして打ちのめされながら、私は句を作っている。
2005年6月


◎句箋の書き方と選

句会での句箋の書き方について、少し書いておく。

ちょっとした事なのだが、実際の写真をもとに説明してみたい。

「放射能以外も漏れる原子力」という拙句だが、
音にした場合、五・七・五で区切るとおかしな事になる。

つまり「放射能」の後の間と「漏れる」の後の間が同じ間隔ではないのだ。

こういう場合私は、句箋に?のように書かないで?のように書くようにしている。

ところが選をする場合は、?も?もある句箋に目を通さなければならない。
そんな時は句箋にペンを入れていく。

せっかくの句箋に選者が色々書き込むと聞くと、抵抗を感じる方もおられるだろうが、
披講時に詰まったり、おかしな読み方をしないことが、せっかくの句箋を生かすことになるのだから、是非ご理解を頂きたい。

?や?のように、息継ぎの印を入れたり、一気に読む印を入れたり、振り仮名を振ったりもする。

但し、添削をして抜くことはしない。
集句全体が低調で、佳作の数に困る場合でも、漢字の書き違いや、送り仮名の多い少ないを訂正することはあっても、語順を変えたり、言葉を変えたりして披講することはしない。

また、集句が少ない時や、選句が早く終わった場合など、時間のある時には没句にその理由を書きこんでおくこともある。

これは、選後に投稿者から、自分の句が何故没になったかを問われたときのために、私自身に印象付けておくためでもある。

そうはいっても一ヶ月後や半年後に質問されても困るのだが。
2005年6月


◎中八と定型

今回は「中八」から定型というものを少し考えてみたい。

拙句を例にするが、

CoQ10品切れ 残飯出てますが  帆波

「コオキュウテンシナギレ ザンパンデテマスガ」
と読む。音字数は十九もある。

これを「コウキュウテン シナギレザンパン デテマスガ」
と読むと「中八」になってしまう。

過去多くの選者の披講を聞き、自分でも声に出して句を読み、作句してきた中から思うのだが、 

一句の成り立ちが三つの部分で構成され、
始めの五音で意味が区切られた後の八音の意味の区切りに違和感を感じる。

それとは違って、七音の意味の区切りの後の五音はとても座りが良い。

それに、始めが六、七、八音であっても、次に連なる七音・五音の形があれば、句意はすんなりと伝わる。

きっかけがあって、それを膨らます部分があって、オチがある。

五・七・五の十七音とはその三つの意味を読者が取り込むための「間」を必要とする。
中八、座六はその「間」に一音が異物として混入しているような印象をもたらす。

声に出して読む、耳で聞く川柳と、目で読む川柳の大きな違いである。

そこで先の十九音ある拙句であるが、意味で切ると二つになっている。
武玉川という七・七の短詩をご存知の方もおられると思うが。撥音「n」を使う事で「間」の短縮を狙い、七・七、の律に近い効果を求めたものである。

一句の中に内在している律が「七・五」なのか「七・七」なのかを重要視し、その「間」に入り込んでくる一音をなくすための苦闘が「中八」の否定につながっている。

極端な事を言えば「五・七・五」の形をしていても、意味の切れと「間」の悪さから、定型とは呼べない句も存在してしまうのだ。

多作、多読の面白いところは、過去に詠んだ中で許せない句を発見することであり、許せなかった句が許せるようになる事でもある。

整数的に数える定型論だけでなく、内在している律についても考えに入れた定型論というものも考えてみたい。
2005年6月


◎定型の披講

柳誌の雑詠評欄で、非定型の句を評する (選や添削ではなく、あくまでも句よって表現されている事柄に対しての感想・批評である) ことはそう違和感のあることではないが、

音で披講する句会で不定型な句、中八、下六を抜くことは選者としてできる限り避けなければならない。

心象や詩性に振れた句会で、内在律を理解している選者が、不自然になることなく披講できるのならば、
理解の共通項があるという点で構わないと思うのだが、
全くフリーな句会では七五調を崩さない選句、披講を選者はするべきだと思う。

つまり、句会参加者だけでなく、世間一般が聞いても理解できる、納得できる、披講でなければならないということだ。

後で活字になるのだから、そのときに読んでもらえればいい、などと考える選者はいないとは思うが、
披講は瞬間の活字であり、伝わらなければならない音である。

全体が選者の作品としてその時点で完成しなければならない。

前にも書いたが、選者を頼まれて喜んでいるようでは、お話にならないのだ。
2005年6月


◎定型の崩れと中八・下六

定型とは普通、五・七・五の十七音をいうが、
昨日の雑感(他人の句を例にするのは気が引けるので)
「膝も痛いがガソリン代も痛い」
は十七音ではあるが、五七五になっていない。

そればかりか、七五調にすらなっていない。

音の区切りで見れば、七・七・三になっている。
詩や句というよりは、ただの呟きですらある。

もう一句
「いよいよになってポストが踏絵めき」
の下五「〜めき」や「〜めく」や「〜だとか」などの終わり方も、どちらかというと呟きに近いものがある。

私は、これらの手法を句会ではほとんど使わないのだが、雑詠でたまに使うことがある。

なぜこういう手法を採るのかというと、先日書いた
「定型感を崩すことによって生まれる違和感」
を利用したいからである。

実はそのこと自体が「句会ずれ」していることの証明でもあるのだが。

ここでいう定型の崩しは、けして中八、下六のことではない。

ここがややこしい部分なのだが、
以前、
「五・七・五は読み手がその句の意味を理解するためのルールでもある」
という事を書いた。

つまり、十七音字の定型をもって意味を伝えようとしている句の字余り、字足らずにたいして、必然性・必要性を感じないのであって、はじめから定型を崩す
(極端なことを言えば十七音字以上の句や、それ以下の句も存在できることになってしまうが)
ことによって意味を伝えようとしている句に関しては、積極的に肯定はしないが、必然性・必要性を感じてはいるのだ。

その一番手っ取り早い(雑な表現ではあるが)方法が「呟き」的表現である。

例えば「〜〜をして残念だった」という感情を
「〜〜で叱られる」という今までの下五から「〜〜で叱られた」などの口語体にすることで、感情の強さを表現しながら、説明臭を緩和することが出来る。

技法の一つといえばそうだが、おそらく数年後、数十年後には「し止め」同様、使い古された手法として、暗黙のタブーということになるのではないかと感じている。
2005年7月




                            
inserted by FC2 system