川柳について あれこれ VOL5

◎表現と言語

これは、川柳初心者の方や、川柳を楽しく作っていきたいという方々には参考にならないと思うが、言葉を使っての表現について少し考えて見たい。

言葉で物事を表現するということと、正確に物事を伝えるということは微妙に違う。特に日本語は、外国語と違って漢字、平仮名、片仮名、と文字の種類が多く、アルファベットを利用した簡略標記などを使う場合もある。同音異義語も多いし、地域によるアクセントの違いも多い。これは日本列島という地理学上の問題、政治システムの歴史的流れ、また東アジアの地政学、歴史地理学上の問題等が複雑に絡み合って、日本語文化というものが築き上げられてきたことによるものだと考えられる。
近代から現代にかけても、明治維新以降の脱亜欧入政策から、数度の戦争、太平洋戦争敗戦、戦後経済の高度成長、バブル経済とその崩壊等の外的および内的要件によって、現在も日本語は変化を続けていると考えられる。会話はいいとしても読み書きになると、外国人をして「悪魔の言語」「呪いの言葉」などと呼ばれる理由でもある。当然、どんな外国語でもそうであるように、日本人も日本語を「文法」を習った上で話したり、読み書きできるようになっているわけではない。これは日本人の文化的資質であり、日本語という言語の柔軟性でもある。よくできたOSだと喩えれば理解しやすいかもしれない。逆に、六法全書などの法律用語が判り辛いのは、柔軟性のある言語を用いて、文章の意味を限定することの難しさを表している。
2006年01月


ここ数年「お笑いブーム」である。
若手、ベテランを問わず膨大な数のお笑い芸人がテレビ・ラジオ・雑誌など、ありとあらゆるメディアを席巻しているといっても過言ではない。
また「笑い」の質も変わってきている。いや正確には、これまでに無かった笑いの形態、メディアに乗ることがなかった笑いの形態、を見ることができるようになってきたといえる。有料でなければ見ることができなかった「寄席芸」「楽屋落ち」などが、「情報の新鮮さ」という括りで提供されている。
マジシャンが種明かしをするのだが、実はそのパフォーマンスは種明かしがメインではなく、種明かしをすることで見るものの視点を限定させ、そこに派生する新しいトリックを演ずるというものなのだ。「お笑いのトーク」もそれに似た仕組みを利用している。
漫才であれ、落語であれ、電波に乗ってしまうとその「ネタ」の鮮度があっという間に落ちてしまう。80年代の漫才ブームが急速に終焉したのも、ここに原因がある。
現在のブームはこのことを教訓に、メディアではトークを主とし、ネタはライブを中心に提供する。これは、メディア上ではネタに対する飢餓感を視聴者に持たせながら、トークの内容を精査した上でライブを行うことで、ファンに事象の共有性を持たせるという戦略である。メディアではすべてのネタを見せず、ライブではそれまでのネタにプラスアルファをつけて売る。
結果、メディア上ではワンフレーズギャグ、落差を用いた小ネタが多用され、そのリーチによってCM曲のように、知らぬ間に視聴者に刷り込まれていく。私はこのことが最近の方言ブームの理由の一つになっているのではないかと考えている。関西弁だけではなく、北関東弁、東北弁、九州弁。またそれらのアクセントを取り入れた新しい表音。比較的若者が多い居酒屋などで耳を澄ませていると、ユニークな言葉や表現を聞くことができる。
ところが、そういった話し言葉をそのまま彼らはメール等で打ち込んでいるわけではないらしい。それなりの書き言葉というものが発生している。(絵文字は表意記号なので今回は考えないでおく)
よほど仲の良い同士でなければ「アクセントの共有」ができないので、修正された書き言葉が用いられているようだ。最近のテレビでは発言がテロップとして流されることが多いが、これに似ていると考えていいだろう。
2006年01月


本来そう簡単な言葉ではないのだが「愛している」という言葉がある。
「好きだ」という感情と「愛している」という感情には大きな隔たりがある。
たくさんの表現方法を持つ日本語では、感情の比喩表現そのものが長い時間の中で慣用表現に変化していくこともある。
川柳のように短い作品では、作句する上でいくつかの言葉の省略を求められる。しかし、何でもかんでも省略してしまっては、感情を伝えることができなくなってしまう。そこで他の言葉に特別な意味を持たせたり、その言葉から想起される状況、感情を通して伝達したい情報を浮かび上がらせたりする表現手法を用いる場合が出てくる。
難解だとされる作品は、おおむねこのような手法をとられている場合が多い。
こういった場合、発句動機に忠実であろうとするならば、定型、非定型は「川柳」の要素の第一番目にはならない。形式が「川柳」の定義にならないからである。どういった発句動機が「川柳」なのかがその定義になってくる。
以前にも書いたが、「おかしみ」「軽み」「穿ち」という川柳の三要素は、過去の作品の分類から導き出されたものであり、当時を考えると「狂句」との差別化を図るための「指標」であったともいえる。
現代川柳は、当時以上の膨らみを持っているため、過去の経験則から導き出されてきた暗黙のルール(例えば、し止め、孫の句など)をもって、川柳界が川柳を定義することが必要なのかどうか、新聞・雑誌、マスコミ、ネット上で募集されている「川柳」と呼ばれているものの応募数を見聞きするたびに考えさせられている。
2006年01月


「キモかわいい」「エロかっこかわいい」という相反する言葉を繋げるというより融合させる表現が若者を中心に結構使われている。気持ち悪いのか可愛いのかどっちなんだ、と突っ込みたくなる表現だが、これを使う人たちの間ではどうも必然性のある表現のようだ。
相反する形容詞をつなげればそれでひとつの言葉が出来上がるかといえばそうではない。
「キモかわいい」でいうと、「キモい」と「かわいい」はそれぞれ若者の中で相当の時間、ある状態を表現する言葉として使われてきた。その中で本来の「気持ち悪い」や「可愛い」の範囲を超えるものに対しても使われるようになっていた。
これには日常使われる語彙が減少してきたということもあるが、メールや携帯という通信環境の発達、短いフレーズで狭い範囲の仲間と付き合うという生活様式の変化など、さまざまな理由が考えられる。
短いフレーズで付き合うことで時には思いもよらない相手からの反応、攻撃を受ける場合がある。そういう場合、半ば慣用句と化してしまった「キモい」「エロい」などの表現に安全装置というか、人間関係を維持するための工夫が必要となってくる。
世代で言うと私なんかよりずっと下の世代になるのだが、彼らのコミニケーションの大前提は、「傷付きたくないから傷付けない」というもので、これはもちろん世の中全て体に対してのものではなくて、自分たちの文法が通じる範囲においてのことである。
「え〜っ」「やだぁ〜」「ウソぉ〜」が流行った80年代から、インターネットの浸透によってこういった風潮はどんどん加速しているように思う。

2006年01月


さて、これまで表現と言語について取り上げてきたが。ただ、思うままに書き連ねてきたわけではない。「中八音」というものは本当に日本語の変化なのかどうか、もう一度、私なりに考えてみたかったからである。
競吟で川柳を覚えた私は、「川柳は音」という認識が強い。すなわち「話し言葉」なのだ。
「話し言葉を句箋に手で書く」のが句会。であって、「手で書けない」言葉で川柳は作れない。例えば「打ち言葉」とでも呼ぶか、そういったものでは川柳を書けない。
・川柳は話し言葉で書く。
・川柳は「センリュウ」と読み「カワヤナギ」とは読まない。
この二点、現在では川柳界以外の世間一般でも十分に認識されていると思う。
私が始めた頃は「カワヤナギ」と呼ぶ人や「旧仮名遣い」で作句される初心者の方がちらほらいたが、今はそういうことはまずない。これは「川柳界」の活動の賜物だろうか?
残念だが、私はそうは思っていない。
新聞・雑誌・企業の公募、中でも「サラリーマン川柳」や「万能川柳」「時事川柳」の影響力だったと思っている。
バブル崩壊後の負の清算ができないまま長い年月が経ってしまったので、世の中の閉塞感はあらゆる世代・階層に澱のように溜まっている。そんな中、比較的若い世代が投稿という形で「川柳」に参加しているであろうことは「川柳界」の年齢構成と「マスコミ・メディア作品」の年齢構成を見ても明らかである。
句会・柳誌に参加する人たちの「話し言葉」と新聞・雑誌などに投稿される人たちの「話し言葉」の違いが、川柳界に存在している「中七音」とは違う拍の「中七音」すなわち「中八音」を生んでいるのではないだろうか。
普通、手で書く言葉には句読点が存在しているのだが、携帯に代表されるメールなどでは、句読点よりも改行、句読点そのものが絵文字や記号の一部として使用される場合もある。つまり「拍」が無いのだ。
四拍の偶数音をあえて奇数音にすることで生まれる一泊をもって、「起承転」から「結」に向かう「間」というか「味」を生み出す「七音プラス一拍」の面白さを感じ取れない故の「中八音」ではないのか。
どんな言語も時代を経るに従って変化していく、日本語も例外ではない。
しかし「書き言葉」は「話し言葉」ほどまだ変化はしていないのではないか。
また「話し言葉」も特定の範囲で伝わるものとそうでないものに分かれていて、その中の「伝え言葉」なるものは、やはりそんなに変化していないのではないか。
ならば募集時に「五・七・五の十七音で作られた作品」という文言を挿入することで、「定型論云々」という話は解決してしまうのではないのか。
「中八」は選出しないという「結果」をもって知らしめるのではなく、ルールとして掲示すればいいのではないか。とくに「課題」が与えられている場合は「より同じルール」で楽しんでもらう用意が必要だと感じる。
2006年01月



◎川柳は文学か否か

川柳は文学か否かをいう場合、私はその同時代性と時事性を考えないではいられない。吟社川柳とマスコミ川柳(一般に雑誌・メディアで公募の形をとっているもの)の大きな違いは、参加者の数である。
投稿が有料・無料、賞品・賞金の有無を除いたとしても、圧倒的にマスコミ川柳の方が多い。桁が二つばかり違うのではないだろうか。
選考される水準を言う声もあるが、そこに同時代性と時事性を考えるのである。
「これが川柳のレベルだと考えられては困る」という考えは、吟社川柳界における、同時代性と時事性から発生する言葉だと認識している。
企業・業界が募集するのであるから、選考基準はその企業・業界にプラスになるような方向性を持ったものでなければならない。これは一見一理あるように見えるのだが、その発表作品を目にする人々は、川柳界のように「作者=読者」であるとは限らない。なぜならマスコミ川柳は、圧倒的な応募者数以上に読者数を抱えていると考えられるからである。新聞柳壇などは年間にすれば応募句数は数十万句に上るのではないだろうか。読者数は数百万であるから、その全員が柳壇を読んでいないとしても、相当な数の読者が存在する事になる。
そこに発表されている句がはたしてマスコミの営業に加担する内容のものだけなのだろうか。川柳家でないものが選考したとしても、選考者は様々な属性を持った圧倒的な数の読者を意識せざるを得ない。
つまり、選出された作品を頭から「こんなもの」と断ずることなど出来ないのである。
では、様々な属性を持った圧倒的な数の読者を意識するとはどういうことであろうか。ここに世間の「川柳」への認識が存在する。吟社川柳界内で共有されている時事性と、世間の川柳認識の違いといってもいい。この認識を土台として川柳の文学性をいうのであれば、川柳界から世間の川柳認識を超えた作品が発表されているのかどうかという地点に辿り着く。
世間がその作品を川柳と認識し、その上に「こんな川柳もあるんだ」という驚きと賞賛を与えるような作品。
そういう作品を生み出すにはどうすればいいのか。
そういった作品を評価するにはどうすればいいのか。
そういった作品を世に知らしめるにはどうすればいいのか。

私には「川柳」がどこへ行こうとしているのか、というよりも
「川柳界」がどこへ行こうとしているのかという風に見えてしまう。
2005年12月


◎川柳が書けない時

またこの何日か「川柳」が書けないでいる。
用事が多くて時間が取れないという事もあるのだが、発想が「見つけ」ではなく「理屈」に傾いているのが大きい。ニュースを見て・聞いて感じた事を書くのではなく、書くためにニュースを読み返している。これでは「句」にならない。
いや、正確に言えば「私が読みたい、感じたい川柳」にならないのだ。
他人に読んでもらって解かる「川柳」を求めていながらも、自分の中にある「川柳」に沿ったものを作りたい。どうもこの間の振幅が、句が作れる、作れない(と、自分で思いこんでいるだけなのかもしれないが)が定期的に訪れる理由なのかもしれない。「私が読みたい、感じたい川柳」という気持ちが強過ぎる句は、じつは「私が抜きたくない川柳」でもある。
「どうだ凄いだろう」という作者の気負いが見える句は面白くない。面白いのは作者だけなのだ。
川柳を詠みたいという衝動が、読者の評価を得たいという衝動に負けてしまうと、いい川柳ができないのだと思う。

2005年11月


◎おいしい川柳


川柳は基本的に一読明快で、笑いを生むものでなければならない。
と世間では理解されている。
ところが、憲法九条ではないが「一読明快、笑いを生む」という言葉は色々に解釈をすることができるものだ。
「一読明快」といっても、単なる一行の文章を読解するという姿勢で句に対峙するのと、「川柳」として、それを楽しもう、理解しようとして対峙するのとでは、意味が違ってくる。
「笑い」もそうだ。お笑いという演芸だけが笑いではないことぐらい誰にでも判るが、外界からの刺激によって起こる笑いと、自己の内側から沸きあがってくる笑いとでは、まるで意味が違う。
人間は辛い時、悲しい時だって笑うものだからだ。
そんな広い意味での感情を、読み取ったり・表現しようとしたり・共用しようとする作句の試みや、難解句と呼ばれるものに対峙する姿勢が気付かせてくれるのが「川柳味」であり、そこに「おいしい川柳」が落ちていたりする。


2005年09月


◎川柳の認識

高齢化の問題と共に川柳界が抱いている問題は、「川柳」というジャンルで社会的に認知されている作家が少ない事だ。日がな川柳を捻って食べていける人がいないのだ。句会や吟社は、組織として利益を追求しそれを分配して拡大していくという形にはなっていない。また、一句幾らという著作権に対しての相場もない。
このことが川柳界でいう川柳の世間への認知や、川柳家の育成が進まない理由の一つであろう。しかし、逆にいえばこういった状況が「川柳」のハードルを下げ、誰にでも楽しめる文化・文芸として世間に認知されている理由でもある。

川柳界はどこか「川柳」に格を求める所がある。だが「川柳」という日本語を認知している世間は「川柳」に格を求めているのだろうか。
どんな時代でも「川柳」は「川柳」として認識される。そのためには須らく「自由」でなければならない。その環境を作り守る事と、職業としての川柳作家や組織としての川柳界が存在していくことは、果たして両立出来ることなのだろうか。
2005年09月


作家という職業がある。一言で括るには幅の広い職業だが、文章や絵画などの作品を書いて対価を得ておられる方々の事である。この場合対価の多寡は考えない事として、「川柳作家」という存在を考えてみたい。
句箋に一句書いて、幾らか貰えるということはあるだろうか?
そんな話しはまず聞かない。

故山田良行氏にまつわる話の中で、晩年の安川久留美が放浪中に句をしたためた句箋を持参したとき、それに対して幾らか包んだと言う事を読んだことがあるくらいだ。
川柳人が川柳人の才能に対して少しばかりの便宜をはかるということはあったかもしれないが、読者または出版社がその句箋に対して対価を支払うなどということは、新聞雑誌の柳壇における「賞金」という以外、まずありえない。
入門書などを含めても、作品集・句集が出版界を騒がせた、ということも数えるほどしかない。これは何故だろうか。
川柳界ではよく、川柳の社会的認識が低いためだとか、マスコミ川柳のせいで本当の川柳が誤解されているだとか言われるのだが、私はそういう風には考えていない。「川柳」とは、いや「句」とは、作者より句そのものが世間に認識され、評価され、生き続けるものであるが故に、作家という人間の存在が薄くなってしまう。そしてまた、川柳の扱う時事性は、世間一般の読者からすれば、作者の匿名性によって担保されていると映る。川柳界における「号」と一般にいう「ペンネーム」との間に認識のずれが存在するのだ。
「川柳」とは作家個人のものではなく、「うまいことを言う」「よく言ってくれた」という市井の人々の感情によって世の中に生を受けるといってもいい。
題詠であれ、雑詠であれ、川柳はもっと世の中に対してのモノであるべきだと考えている。

2005年09月


               
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